見出し画像

パーソンあるいは一無位の真人

東大哲学科時代の恩師の一人であり、現在、武蔵野大学にてもお世話になっている一ノ瀬正樹先生から、先生が地元茨城の新聞に寄稿された「人は個人かパーソンか」という論説をシェアしていただいた。大きなインスピレーションを受け取ったので、ここにシェアしたい。

実は、西洋思想の伝統の中にも、「個人」以外に、「パーソン」(person)として私たちを捉える文脈もあります。「パーソン」とは、一般には「人格」と訳されますが、もともとは仮面やマスクを意味するラテン語の「ペルソナ」(persona)に由来する語です。そしてラテン語辞典によると、一つの語源解釈として「ペルソナ」は「ペルソノー」(persono)という動詞に由来すると記されています。「ペルソノー」とは「声を出す、反響させる」の意味です。だとするなら、「パーソン」はもしかすると「声を出す主体」と捉えられることにならないでしょうか。「人格」と言うより「声主」ですね。こうしたパーソン概念は先に述べた、共鳴し続け合うと言う身体的事実に即した人間観に対応しています。のみならず、西洋語圏において「パーソン」は人間以外の動物にも適用されることがあるという事実にも即しています。動物も声を出して反響し合っていますからね。かくして、「私たちは個人である」は人為的な想定によって真であるのに対して、「私たちはパーソンである」は事実に基づいて真だ、ということになるでしょう。

『茨城新聞』2023年3月4日より「人は個人かパーソンか」

ここに、産業僧の活動を通じて私の中で浮かび上がってきていた人間観が、具体的な言葉として表現されているように感じた。そうだ。産業僧として対話者と向き合うとき、そこで何が起こっているのかといえば、パーソンとパーソンの声の響き合い、なのだ。あるいは、声による感応道交を通じてお互いが、パーソンになっていく、営為とも言える。掃除に終わりがないのと同じように、ゴールではなくプロセスの話、あるいはプロセスそのものが毎瞬間ゴールでもあるような話だ。

では、この「パーソン」を今度は、日本語にするなら、どうか。「個人」という訳語もありうるけれど、Indivdual(それ以上分けられない最小単位としての個人)という言葉のニュアンスとは区別したい。ならば、「一無位の真人」というのはどうだろう。有名な禅語であり、横田南嶺老師も記事を書かれている。


「一無位の真人」について臨済宗のサイトには、こう記されている。

 赤肉団上に一無位の真人有り――赤肉団はお互いの肉体のことだ。切れば血の出る、このクソ袋のことだ。朝から晩までブラ下げておるこのクソ袋の中に、一無位の真人有りだ。何とも相場のつけようのない、価値判断のつけようのない、一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。一人ずつおるのじゃ。皆の体の中に一人一人、無位の真人という、修行したこともなければ、修行する必要もない真人が一人おる。陸軍大将でもなければ上等兵でもない。正一位でもなければ従五位でもない。そんな階級はない。社長でもなければ社員でもない。位のつけようがない。男でもなければ女でもない。年寄りでもなければ若くもない。金持ちでもなければ貧乏でもない。偉くもなければ馬鹿でもない。世間の価値判断で何とも価値を決めることのできん、霊性というものがある。主人公というものがある。仏性というものがある。正法眼蔵というものがある。本来の面目というものがある。

 肉体的には肥えた人もあればやせた人もある。金持ちの家に生まれたのもおれば貧乏な家に生まれたのもおる。学校を出たとか出んとか、履歴がついておる。 この肉体の中にそういうことを一切離れた、無修無証、修行することもい らんが、悟りを開くこともいらん、生まれたまま、そのままで結構じゃという 立派な主体性があるのじゃ。

《原典・臨済録/引用・山田無文著『臨済録』(禅文化研究所)より》

臨黄ネット:http://www.rinnou.net/iroha_uta/01_i.html

もともと、カクイチ社の田中社長から「社員の想念が知りたい」という依頼から始まった、産業僧。そのとき、田中社長が求めていたのは、社員たちの「カクイチ社員としての」声ではなく、パーソンとしての声であり、一無位の真人としての声だったのだと思う。社員としてでも社長としてでもなく、お父さんやお母さん、息子や娘としてでもなく、組織でも個人でもなく、一人ひとりのパーソンとしての声。

音声感情解析に似て非なるものとして、「エンゲージメント」というのがあるが、なぜそれが似て非なるものかといえば、エンゲージメントは基本的に「社員の組織に対する愛着(執着)心」を測るものであり、その執着心が高ければ高いほど良いとする発想が、仏教的な考え方とは相反するからだ。

産業僧の取り組みでは、対話の際に相手の音声をAI音声感情解析を通じて「観音」するのだが、それはあくまで「執着を離れる」方向を向いている。もちろん、人間である以上、執着を完全に捨て去ることは、できない。掃いても掃いても落ち葉が積もり続ける掃除に終わりがないけれど、だからといって掃除に意味がないということにはならない、というのと同じだ。

終わりはないけれど。しかし、終わりがないからこそ、日々、掃除をしていこう。パーソンとしての終わりなき執着の手放しを自覚して実践することを支援する音声感情解析は、社員としての会社への執着心を測定し高めることを目的とするエンゲージメントとは、根本的に発想が異なる。

この「パーソン」というキーワードから、ふたたび思い返すリーダーシップ論が、熊谷晋一郎先生に教えていただいた「謙虚なリーダーシップ(Humble Leadership)」論だ。そこでは、チームのコミュニケーションの段階として、1段階目のお金や物などを通じてギブアンドテイクの契約で成立する「取引的なコミュニケーション(Transactional Communication)」と、その先にある2段階目の一人一人が人として向き合う「パーソナイズされたコミュニケーション(Personised Commnication)」が語られている。そして、これまでの機械論的な企業組織は1段階目のコミュニケーションで成り立ってきたけれど、これからの人間性を重視した組織においては2段階目のコミュニケーションが重要になってくる、という。

まさに、ここでいう「パーソナイズされたコミュニケーション」とは、お互いがお互いをパーソンあるいは一無位の真人と認め合う関係性の上に成り立つコミュニケーションのことであり、そこではその人の「本当の声」が響き合うに違いない。

その時、僧侶はどういう存在かといえば、理想化するなら、パーソナイズの達人(Master of Personizing)ということになるだろうか。2段階目のパーソナイズされたコミュニケーションは、もちろん、僧侶でなくても、たとえば上司と部下や、同僚同士の対話でも成り立ちうる。だが、僧侶は、企業組織ではたらく人にとって、見るからに利害を共にすることのない完璧なる第三者的な立ち位置にあり、なおかつ、葬儀や法事などで「人は必ず死ぬ」事実に日常的に触れている立場から、初対面でも自然と2段階目のクオリティのコミュニケーションに入りやすいという利点がある。

そう考えると、産業僧のターゲットは、パーソンである。と言うと一見、誰でも彼でもターゲットになるようだが、そうではなくて、誰しもの中に本来あるはずの一無位の真人に呼びかけているのであり、その真人は対話を通じて顔を出す瞬間がある。マーケティング用語でいうなら、パーソンは、あらゆるセグメントを超えているのだけれど、かといって、マスマーケティングではない、ということになる。

ちなみに、この「パーソンとパーソンの声の響き合い」の実践として、わたしたちの日常生活の中にあまりにも何気なく埋め込まれており、その語源を辿れば仏教の考え方にも通じている、一つの習慣がある。

それが、挨拶、だ。

ここから先は

967字

このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

"Spiritual but not religious"な感覚の人が増えています。Post-religion時代、人と社会と宗教のこれからを一緒に考えてみませんか? 活動へのご賛同、応援、ご参加いただけると、とても嬉しいです!