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横ざまに超える

昨年末に虎ノ門ヒルズをぶらぶらしていたら発見したSPBSという本屋さん。

売り場面積はとても小さいのだけど、ラインナップがもう自分の読みたいものにぴったりハマりすぎていて、店員さんに誰が選書しているのか聞いてしまったくらい。「スタッフみんなで選んでます」とのことだけど「大手の本屋さんみたいに、取次から自動的に大量に送られてくるベストセラー本みたいなのがないので、こういうスペースでやれています」とのこと。そういえば、確かに大手の本屋さんでは、入り口とか各フロアの目立つところにベストセラー本の販促コーナーみたいなのがかなりの場所を占めている。

店員さんに「よかったら『グッド・アンセスター』もきっとこの本屋さんに合うと思うので置いてもらえると嬉しいです」と図々しくお薦めしたら、調べてくれて「あ、もう置いてますね」と。若林恵さん(元WIRED編集長)の黒鳥社の事務所も近くにあるので、ラインナップにはその影響もあるようだった。

話は変わるけれど、最近改めて気になっているのが、親鸞の「横超(おうちょう)」という言葉だ。

「横ざまに超える」という、このちょっと変わった言葉は、故・吉本隆明師が親鸞研究において注目したところから、多少世に知られるようになった。毎年続けられてきた吉本師を偲ぶ会に「横超忌」と名付けられているくらい、吉本フォロワーにとっても大切な言葉となっている。

調べると色々な記事が出てくるが、自分なりにこの「横ざまに超える」ことの意味を表現してみるなら、決して仏にはなれない私が、迷えるこの身このままに、仏になっていく道があることの「ありえなさ」具合を強調した言葉かと思う。この「迷い」というのは、少しばかり今どきの言葉遣いに翻訳するなら、「二元論的思考」や「分離」と言ってもよいだろう。

これが好きあれは嫌い、これが良いあれが悪い、といった二元論的な分離意識こそが、仏(ほとけ)と対置される凡夫としての人間の個性だと思うけれど、その個性こそ人間が仏に愛されている部分でもある。極端な話、そうした迷える人間の紡ぐ分離的な物語こそ阿弥陀仏が目当てとするものであり、演劇は演者と観客がいなければ成立しないように、観客たる阿弥陀仏があってこそ人間が存在しているような気にもなってくる。もちろん、逆もまた然り。

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