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よい対話とは
ブッダが行った対機説法は、相手の性質や状態に合わせて、その相手を悟りへと導くように説法を行うことと言われる。
ブッダとは、目覚めた人、という意味。「私」という殻に閉じた私が、その幻想を破って目覚めた人だ。
であれば、ブッダが行う対機説法には、もはや「私があなたを悟りに導く」というような普通の意味での「私」的な意識は介在しない。
対機説法は、ブッダがブッダとブッダする、みたいなものかと思う。
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浄土仏教には「機法一体」という言葉がある。
一般の人々がもっている潜在的可能性 (機) と仏陀 (特に阿弥陀仏) の教え (法) とが、本来不二一体である
産業僧として行う対話において勘違いしてはいけないのは、それが、ブッダ側(法)に立つ僧侶が一般の相手(機)に対してどうこうする、というようなものでない、ということだ。
対話において向き合っているのは、二人の機、だ。対話とは、二人で行う瞑想と言っても良いかもしれない。その二人で作る場が、仏法(ブッダダルマ)のはたらきと重なる方向へベクトルが揃っていくことが、機法一体の示唆するところかと思う。
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瞑想には主に二種類の系統があると言われる。
1つ目は、サマタ瞑想。
サマタ瞑想とは一点集中型の瞑想で、反復される言葉やイメージなどの瞑想対象に意識を集中し、最終的にはその対象と合一してしまうほどの深い統一状態を目指していく技法です。この主体と客体が融合してしまう究極の意識状態を「サマーディ(samādhi :三昧、禅定)」と呼びます。
もう一つは、ヴィパッサナー瞑想。
今、この瞬間に自分の心と体が何を経験しているかに気づき、ありのままに観察していくのです。一切の思考や判断を差し挟まずに、見たものを「見た」、聞いたものを「聞いた」、感じたものを「感じた」と一つ一つ内語で言葉確認(ラベリング)しながら、純粋に事実だけに気づいていく……。この作業を「サティ(sati)」と言い、ヴィパッサナー瞑想はサティの訓練を中心に進めていきます。
ざっくり言うと、集中系の瞑想と、俯瞰系の瞑想、と言うことになる。ミクロにグッと寄っていく方向と、マクロにグッと引いていく方向だ。対話には両方の要素が入っているのが面白い。
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