見出し画像

日本の暮らしに浸透する「アンビエント仏教」という信仰

先日、イギリスの仏教思想家スティーブン・バチェラー(Stephen Bachelor)さんとオンラインでお話しさせていただく機会をいただいた。バチェラーさんの仏教観(Secular Buddhism:宗教色のない世俗の仏教)から生まれる仏教の翻訳の仕方には、共感するところがとても多い。現代の日本仏教を見つめ直すにあたっても、これからの時代の仏教との親しみ方を思うにあたっても、大事な視点をいつも提示してくれる。

バチェラーさんは会話の中で、僕が日本仏教を説明するに使った「アンビエント仏教」という表現にいたく関心を示してくれて、それについてもっと聞かせて欲しいという。よい機会なので、これまで自分が書いたり話したり感じたりしてきたことを、少しまとめてみたのでシェアしたい。




日本の暮らしに浸透する「アンビエント仏教」という信仰


日本のお寺は二階建て 

日本仏教は、他の宗教と同様に、様々なメタファーをもってこの世のありようを描写し、その世界観を共有しながら、いかに生きるかを問う哲学(仏道)として、また、救いや気づきを求める人々の足元を照らす灯として親しまれてきた。そのいずれにおいても、「死者」の存在を切り離すことができないのが日本仏教の特徴と言えるだろう。「死者」が色濃く存在する日本人の死生観において、仏教は先祖供養の場として重要な役割を担い、お寺や僧侶は、人々と死者とをつなぐ存在として機能してきた。

その特徴は、「日本のお寺は二階建て」構造として整理すると捉えやすい。一階は、先祖供養の受け皿として死者を扱う弔いの場であり、二階は、今を生きる人々が仏道を問う学びの場である。昨今、仏教的価値観が再認識されるなか、人々の関心は二階へ向かいつつあるものの、国内にある約7万の仏教寺院のほとんどは、一階の活動を土台として成り立っている。こうして日本のお寺は、日々生死のはざまに立ち会いながら、法事や葬儀、墓の維持に当たってきた。この時、「家」を単位とする檀家制を軸として生死をつなぐことで、日本社会の家制度を支えてきたことも、お寺の担う重要な役割であった。


「見えないもの」とつながる日本の暮らし

ブッダの教えに立ち返れば、死者をいかに扱うかより、「この世をいかに生きるか」を問い学ぶ「仏道」こそ強調されていただろう。最近では、マインドフルネスの流行もあって禅プラクティスを学ぶ人も増えている。しかし、長い歴史を振り返っても、一般的な日本の暮らしには、いわゆる坐禅や瞑想といった習慣はなく、むしろ、そうしたプラクティスとは異なる形で日本人は仏教に親しんできた。

むかし話や民話といった、声で語り継がれてきた物語の数々は、いまや書物の中に閉じ込められつつある。しかし、比較的最近まで、鬼や妖怪など擬人化された存在や、人間に化けて現れる動物たち、万物に宿る神聖なる存在(カミ)など、「わからないもの」や「見えないもの」との交流が暮らしにあった。日本に住んだ、もしくは足を使って旅をした経験のある人は、いたるところで、そうしたものたちとのアクセスポイントに遭遇しているはずである。

人里には必ずといっていいほど神社仏閣があり、山や樹、石などの自然物は神霊の宿る依代として、川や谷はこちらとあちらを繋ぐ境目ともされてきた。都市部においては多くが失われてしまったが、今なお、町角には地蔵様や道祖神が遺り、山に入れば数々の祠や石仏が並んでいる。そして、それらは誰かしらによって手入れされたり、お供物や賽銭が添えられていたりする。住まいには、仏壇や神棚、もしくはそれぞれの趣味趣向に沿ったそれに代わるものがあり、暮らしの中に、見えないものの居場所が設けられていることは珍しくない。初めて東京を訪れる人は、ぜひ、東京タワーに登ってみて欲しい。これだけの大都市でありながら、驚くほどの墓地が眼下に見えることに驚くだろう。

こうして人々は、身を置く環境そのものに、「わからないもの」や「見えないもの」をみて、畏れ、守られ、手を合わせてきた。地域や信仰によって描写の仕方は様々だが、そこには常に「死者」の存在が大きな要素として含まれている。こうした「輪郭なきものと共に、曖昧さに溶けるように生きる」死生観は、日常が既に仏教を纏っているようであり、日々の暮らしがそのまま、先祖供養×仏道となっているとも言えるだろう。「宗教」以前の仏教とでも言おうか。果たしてこれを、「環境的仏教(アンビエント仏教)」と表現してみてはどうだろう。

そうした環境的な信仰は、伝承の仕方もまた、環境的である。参照元となる決まった書物や教義があるわけではなく、風習や物語に溶け込んで人の手を渡り、環境に応じて変容しながら受け継がれてきた。日本人の多くが、宗教を問われても明確には答えられない理由がここにあろう。しかし、確かに、肌が外気の湿気を受け取るように、温泉に溶けた地中の成分が毛穴から体内に浸透するように、私たちは土地の風土から仏教を、あるいは名もなき信仰を取り込みながら、それらと一体となって生きてきた。
 

アンビエント・ブディストという生き方

米を育て、獣をいただき、里山を手入れする。藁を編み、繊維を紡ぎ、和紙をすく。味噌を仕込み、酒を醸し、掃除をする。天体の巡りや田畑のリズムに合わせてまつりごとを成し、「恵み」という環境に感謝して、死者という「環境」を畏れ祀る。そうした暮らしに、祈りがあり、瞑想があり、儀式がある。人が死を迎えれば、死者は浄土である山川土草へかえり、次世代を見守ると同時に、その営みをつくる一部となっていく。アンビエント仏教は、生きて死んでいく実践そのものである。

禅の世界では、「仏道は三学(戒定慧)」の3ステップと言われている。木にたとえるなら、根は習慣(「戒」=戒律)にあたる。幹は心を整えるマインドフルネス(「定」)で、根があってはじめて幹が育ち、実りがなる(「慧」)。つまり、禅とは本来、日常生活にある習慣であり、生活のあらゆるところ、すべての瞬間が本番という。

こうした、宗教で括ることのできないアンビエントな信仰が、日本人の死生観にはそもそもあって、異質なもの同士、あえて違いを曖昧にしたままに、「混ざるに任せる」ようにして独自に環境がつくられてきた。かつてブッダが、言葉を超えて放ったという「音」に包摂された世界が、ここにあるように思う。

アンビエント仏教は、気付かぬままに、仏法の中に生きているようなもの。自らの内外を分けることなく環境の一部としてある信仰は、体内を、そしてこの世を巡る水のように、自覚はなくとも絶えず漂い、流れている。そういった意味では、今、多くの企業がこぞって取り入れている「意図的」に取り組むマインドフルネスプラクティスは、現代ならではの仏教アプローチ、親しみ方と言えるだろう。


死者を媒介としたプラクティス
〜グッドイナフ ・アンセスターズ〜

2021年、私はローマン・クルツナリック氏の著書『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』(あすなろ書房)を翻訳させていただいた。

今から100年後、今ここに生きる私たちの殆どは、一生を終えてアンセスター(祖先)になっている。その時、私たちは未来世代の心にどのように映るだろうか。この「問い」は、今をいかに生きるかを問うに等しい。過去から受け取ったバトンを、未来へいかに渡していくか。過去生きた祖先を思うことは、いずれ祖先になる自らを思うことであり、「今ここ」の在り方を見つめるプラクティスとなる。「Good enough(充分)によく生きた」と人生を終えられることが、一つの「よき祖先」への道ではないか。死者を媒介とした、暮らしに染み込んだマインドフルネスがここにあり、これもまたアンビエントな仏教である。


アンビエントなつながりの中で

 日本語には、アンセスターを表す単語が「先祖」と「祖先」の二つある。『グッド・アンセスター』においては、「祖先」を用いた。「先祖」は、血縁あるいはgene(遺伝子)が強調される概念である一方、「祖先」は関係性が限定されずに開かれている。血縁にも、人類という種にも閉じていない。あらゆるボーダーを超えた死者の集合体のようでもある。

事実、私たちは無数の祖先から、無数の恵みを受け取って生きている。仏教はサンガ(仲間)を大切にするが、サンガの概念に仕分けはない。「仏道を歩む者ならば、国籍、民族、性別、能力・・・あらゆるボーダーも越えて共に歩むファミリーである」という教えであり、それこそが、ブッダの大事なメッセージであった。今を生きる人間同士のサンガもあれば、生死や種別を超えてつながるサンガもあろう。環境に含まれている無数の祖先は、誰もが共に歩むことのできる、心強いサンガなのだ。

限定的な関係性に閉じる「先祖」から、環境的な果てなき「祖先」へ。こうしたアンビエントなつながりの中で、共に受け取り、共に育み、そして共に手放していく。そうしたビジョンが、これからいよいよ大切になるだろう。これまでの資本主義経済を成り立たせてきた、「個人」×「所有」×「責任」を軸にした社会からの脱却とも言える。
 

私からの自由、私たちのマインドフルネス

禅僧の藤田一照さんによると、「瞑想や坐禅の向かう先は、私からの自由である」という。「私(セルフ)」からの自由とは、私、つまりは、私を含むあらゆる関係性を捉えようとする執着から離れていることだ。マインドフルネスは、ストレスを抑えるための道具でも、現実から逃避する術でもない。そうしたひとときの効果は確かにあるかもしれないが、大事なのは、日常をどう生きるかである。「私」が何かを「獲得する」ための術となっては、本来の禅から離れてしまうようにも思う。

より多くの物質と戦略によって、ものごとの確実性を求めてきた世界において、今、成長を続けることの限界が見えている。所属や所得をもって豊かさや幸せを図れるものではないことは、既に多くの人が知っている。国、社会、家族といった共同体の概念も、今後、更に刷新されていくだろう。ウェルビーイングもマインドフルネスも、「私」から、より開かれた「私たち」へ。ボーダーを超えた、複数形の在り方の探求が深まることだろう。「わからないもの」や「見えないもの」をあえて言語化せずに曖昧なまま残しておき、無意識のうちに毛穴から身体へと深く浸透する「環境によってもたらされる信仰」は、時空を超えて共に生きる私たちをつなぐ無形のレガシー(遺産)かもしれない。


ここから先は

218字

このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

"Spiritual but not religious"な感覚の人が増えています。Post-religion時代、人と社会と宗教のこれからを一緒に考えてみませんか? 活動へのご賛同、応援、ご参加いただけると、とても嬉しいです!