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伝道とは「翻訳」すること

先日、浄土真宗本願寺派の伝道院で講義を持たせていただく機会があった。伝道院は、布教使を目指す若手の僧侶の方々が集う学び舎で、自分もかつての卒業生だ。その時に話した内容を思い出しながら、以下、記事にまとめてみた。どちらかというとお坊さん向けの内容かもしれないけれど、それも含めて楽しんでもらえれば幸いです。

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保育園や幼稚園など、子どもたちの人生に関わりをもつお寺は多い。全国の仏教系保育施設の数は1000を超える。もはや記憶には残っていないかもしれないけれど、幼少期をいわゆる「仏教」に触れて過ごした経験のある人は、意外と多いかもしれない。けれど、多くの人は進学の過程で仏教から離れ、就職する頃には、すっかり教科書やメディアを通して目にする社会がこの世の世界観となっている。少なくともかつての僕は、それに近かったように思う。

いくつもの節目を迎え、他者や世界と関わりながら歩む時期、それはつまり、人生における多様なレイヤーの「苦」を経験する時期にこそ、「いかに生きるか」を問う仏法が生きるにもかかわらず、次に出会うのは、断片的な、身近な人の弔いの場面、もしくは自らの老齢期かもしれない。

僕ら僧侶にとって、法務を通じた「伝道」は大事な仕事の一つだけれど、自分を振り返ってみても、どこか社会と仏教を切り分けて「仏教ではこんな風に捉えます」と、"仏教によるお話" を提示するに留まっていたように思う。このことを、僕はとても反省している。そういう意味で、昨年(2021)は、本気で仏法を社会に持ち込む覚悟を決めた一年だった。

資本主義社会のど真ん中、企業の第一線に立っている人にこそ、仏教的ものの見方を伝えよう。その実践の一つが、ここでも何度も話してきている「産業僧」の活動だ。産業僧は、企業のスタッフと僧侶が1on1の対話をするが、その導入にあたっては「従来の人事施策は、人の捉え方自体に無理があると思いませんか」と、経営陣や人事に対して真正面から問いかける。かといって、一方的な提示をしても、相手には伝わらない。なかなか容易なことではないが、僧侶に求められるのは場面に応じた「翻訳力」ではないかと思う。


伝道とは「翻訳」すること

翻訳とは、既にあるものごとに、新たな文脈や異なる背景を持った視点(言語)を招き入れ、ご縁が生まれるきっかけを呼び込むこととも言えるだろう。仏教には、有難くも、先人たちから受け継いできたものがたくさんある。これらをいかなる文脈で翻訳し、ブッダのことばを「今」に着地させるか。細工をしたり作り込んだりして「打ち上げる」ことよりも、既にあるものの価値をいかに翻訳するかが僧侶の仕事のように思う。「今」に着地しさえすれば、後はこの先の未来へと、おのずと転がるように受け継がれていくだろう。

では、翻訳をするにあたって、大事なことはなんだろうか。
僕がこれまでの経験から感じていることを、シェアしたい。


1. 自らゲームを降りてみる

一つは、翻訳者が、自らの立場を降りてみるということだ。優れた翻訳者は、著者と読み手の関係性を必要以上に邪魔しない。仏道を歩む人のご縁は、阿弥陀さまに任せていい。翻訳者である僕は、「浄土真宗本願寺派の僧侶」として介入する必要はなく、ただそこにあって、媒介役を果たせばいい。日頃から、僧侶として「執着から離れよ」というブッダの教えを何万回と口にしてきたけれど、果たして僕ら自身は、宗派・宗祖、もしくは教義そのものに執着していることはないだろうか。僧侶とは、この世のゲーム(様式)に過ぎない。まずは僕らが、そこから離れることに自在でありたい。役割が背負う意図を手放して、そこに現れる縁に任せたい。

例えるなら、いつやってくるか分からないバスを待つバス停で、隣に座った者同士が言葉を交わすー、それぐらいの語らいがいい。そんな軽やかさにあって初めて、生まれるに相応しいご縁が、自然と立ち現れるのだろう。何も生まれなければ、それでいい。

ネットワークサイエンスの世界には、「弱い紐帯(ちゅうたい)の強さ理論」という法則がある。同じ所属先の仲間など、同質性や類似性の高いつながりは求心力こそ強いものの、関係性自体はいたって脆く、そればかりを強調すると社会的孤立を生みやすいという。一方で、緩やかで弱いつながりは、社会の中で、他の異なる紐帯同士をダイナミックにつなぐ重要な役割を果たすというのだ。お寺という舞台や、僧侶という方便は、弱い紐帯を幅広くもつことのできる、稀有な存在かもしれない。

現代社会は、それぞれのゲームから降りられずにいる人が、あまりに多い。仏教は、ゲームから降りる(執着から離れる)あり方を示し、そのための方法を携えている。自ら仏法を生きるにも、その翻訳者となるにあたっても、僧侶がいつでも僧侶を降りられる状態にあることは、とても大切だと思う。


2. 翻訳のあり方を見極める

翻訳にあたっては、環境に応じた相応しい翻訳のあり方を見極めることも、大切だ。表現の質は様々で、多くの人に伝わることを目的とした、わかりやすさが求められる場合もあれば、湧き出るままの感性にこそ価値があり、目的や論理性を必要としない表現もある。正解はなく、縁の数だけ、異なる相応しいあり方がある。

サイエンスが社会の理解を醸成し、人の暮らしが産業によって成り立つ現代社会において、そのど真ん中に仏法を持ち込むにあっては、企業(産業)を相手に、宗教色を抜いた仏法をサイエンスの力を借りて表現する「産業僧」も、一つの翻訳の形と言えるだろう。産業界は、経営者の理解があればあらゆる可能性が開かれていて、有形無形の「利益(りえき・りやくの双方)」が伴えば、広く深くへと浸透していく。

そうした企業を相手に対話を行う「産業僧」は、あくまでも仏法を携えた事業であって、ボランタリーな施しでもなく、宗派宗教の布教的要素は一切ない。お互いに自覚をもって伴走し合うからには、相手と対等にあることは大事な要素だ。意思ある両者があってこそ、共に取り組むなかで縁起していくものがある。対話を重ねる中で起こってくる、認識や価値観の転換が組織全体に広がるイメージは、(僕は経験がないのだけれど、)組織の身体に鍼灸を施すようなものかもしれない。


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