滋賀県勉強会〜中島岳志先生を迎えて〜
毎回、多彩なゲストを迎えて開かれる滋賀県知事勉強会。今回のゲストは、昨年ここでも感想を書かせてもらった『思いがけず利他』(ミシマ社)の著者、中島岳志先生だ。とても勉強になるお話ばかりで、その一部をみなさんにシェアしたい。
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利他的な行為の動機付けが利己的である場合、私たちはそれを「利己的な利他」とみて、そこに "うんさんくささ" を感じてしまう。SDGsもボランティアも、共感を得るためのアピールに使われるのであれば、マーケティングに他ならない。
第一次大戦後の世界を構想するために書かれたという、マルセル・モースによる『贈与論』。1920年代の西洋思想は、第一次大戦のみならず、当時流行したスペイン風邪によるパンデミックとも切り離せない。『贈与論』は、ポスト・パンデミックの世の構想でもあったということだ。
ここでの贈与は、自発的なものではなく、神による形而上学的な3つの義務(与える義務/受け取る義務/返す義務)によって成り立ち、贈与が循環することによって社会の安定が保たれるとされた。
そんな物語と共に、精霊に促されるようにして、人々は独占をせず「受け取ったら与える」贈与を繰り返す。社会はこうして、富の循環を促しながらその秩序の維持に努めてきた。
コントロールを手放して、主体性と潜在能力が生きる余白を
しかし、意図的な循環に設定された「返礼義務」は、受け取り手に負い目を負わせ、支配/被支配の関係を生みやすい。理想的な循環も、「コントロールしよう」という意図が伴うものは支配と化す。
ここで、認知症の方の介護をめぐる事例をあげる。徘徊行動のある方への、危険から「守ってあげたい」という想い。これに、コントロールしようという意図が伴えば、結果的には「拘束」に至る。
一方で、当事者の主体性を守り、今ある能力や状態を「いかに生かすか」という視点によるアプローチもある。その一例が『注文を間違える料理店』(愛知県岡崎市)だ。ここは、注文を間違えて受けることに寛容なレストランとして、認知症の方を常駐スタッフとして雇用する。認知症であっても、社会的な役割を担って生きることのできる環境を生み出している。こうした環境にあることで、症状が改善されることもあるという。
重要なのは、「沿う」ことが利他になるということだ。それは、土木に見える、自然との付き合い方にも現れている。日本においては、かつて、行基や空海といった大乗仏教を背景にした僧侶が土木に与えた影響は大きい。
奈良時代、高僧らは山岳修行で得た「自然を読む力」(水の在処など)をもって地域の土木に携わるようになっていた。今なお、全国に遺されるいわゆる「弘法水」は、山岳修行者らの痕跡である。こうした高僧らによる自然に沿った土木の活動は「衆生の救済」として、この国の土木の原点を築いた。
「沿う」ことがいかに潜在能力を引き出すかは、『のど自慢』(NHK番組)を見ると明らかである。舞台背後に並ぶ楽器の奏者らは、楽譜が示す「正しさ」ではなく、素人である歌い手が本番で放つ、独自の音程やスピードに寄り添う姿勢を貫いている。結果、歌い手は、その人生が溢れ出すような唯一無二の歌を見事に唄い上げ、会場全体の心を震わせるのだ。受け手の潜在能力が引き出された時にこそ利他が成立することを、『のど自慢』の舞台は物語っている。
私たちは、何かを「してあげる」ことを利他と思いがちである。けれど、してあげることが当人の主体性をついばんでしまっては、「ありがた迷惑」にもなり兼ねない。相手に余白を残しながら、ほどよい「おせっかい」を引き出し合って、手伝い合う。そんな相互関係があって初めて、利他は成り立つ。
「受け取ること」に起因する利他
利他を規定するのは、受け手であることを忘れてはいけない。利他は、受け取り手が受け取った時に初めて、利他は利他として、与え手は与え手として浮上する。受け取り手にとって、利他は「過去」からやってくる。与え手にとって、それは「未来」からやってくる。
『贈与論』の中でマルセル・モースは、インドの古典叙事詩『マハーバーラタ』の一節において、大地は私たちに向けて「私を受け取ってください」と語っていることに注目する。私たちは、誕生の原点からして受動的なのである。過去生きた先人たちからの贈与を受け取り、返していくのが私たちの生であり、先祖供養とは、それに気づくことであろう。
祖先を「よい祖先」として受け取っていく。そうして初めて循環は生まれ、グッド・アンセスターになっていく。「よい祖先」になろうとするのは、「してあげよう」と意図することにも近しく、コントロールがはたらきやすい。
九鬼周造は『偶然性の問題』(岩波文庫)において、あらゆる事象は巡り逢いであり、その邂逅の源泉には「偶然性」が厳存することを語っている。私たちは誰もが、思いがけない関係性の連続をもって受動的に存在している。まず、そのことを受けとめて、自覚することから出発したい。
ジャック・アタリ氏の「合理的利他主義」をめぐって
世界がコロナに翻弄する中、間接互恵(与えた相手から直接利益が返ってくる「直接互恵」に対し、周りまわって返ってくるもの)こそ重要であるとしたジャック・アタリ氏の「合理的利他主義」の主張は、大きな注目を浴びた。しかし、これは利己主義に他ならず、利他とは言えない。
利他の循環によって社会を安定させようという思想自体が、予定調和の土台にある。これは、マーケットが動けば社会は上手くいくという予定調和の上に成り立つ、ネオリベラリズムにも等しい。アタリの「合理的利他主義」は、これに説得力を持たせるための上塗りのように聞こえる。キリスト教やイスラム教は、どれだけ善行を積んでも苦難に出逢うこの世において、それでもなお、如何に信仰するかという問いを立てている。アタリは、この深淵な問いに応えず、上手く生き抜くサバイバル術として利他を捉えているようだ。
返礼義務を伴い、(贈与をもって相手に対してマウントを取る)ポトラッチは、社会のさまざまな場面で見られる。しかし、哲学者バタイユはこれに対して「私たちは太陽から一方的な贈与を受け続けており、返礼すらできない存在ではないか。」と応答し、圧倒的な贈与を受け取って存在し得る自らを、自覚することの重要性を提示している。
「自己責任」という謎の日本語に苦しめられる日本人
『責任の生成』(國分功一郎、熊谷晋一郎 著、新曜社)で言われるように、ResponsibilityとはResponse Ability(応答可能性)であるにもかかわらず、私たちはこの単語に「責任」という翻訳を当て、「責務を追及する/責めを負う」文化を社会に持ち込み、お互いを咎め合っている。「自己責任」という謎の概念に縛られた社会をいかに解くか。被贈与の存在として、受け取ったものをお返しできるResponse Abilityこそ、取り戻したい。
意思の有無をめぐる存在論
古代ギリシャに「意思(Will)」の概念はなく、人は意思をもって行動するという人間観自体がなかったという。これは、インドのヒンディー語における「与格」という言語体系にも見られる。主語が「〜は」で始まる主格と異なり、与格は「〜に」で始まる。例えば「私は愛する(嬉しい/風邪をひいている)」は、「私に愛(嬉しい気持ち/風邪)がやってきて留まっている」と表現される。行為や感情を含め、ものごとは自らの意思やコントロールによって成立するものではなく、不可抗力による作用として捉える人間観が根底にある。中島先生は、この「与格」の世界観を現代に取り戻したいとおっしゃる。
日本語においても、かつては中動態表現が豊富にあったほか(『中動態の世界』(國分功一郎 著、医学書院)、西田幾多郎が「場所の論理(述語の論理)」でいうように、述語が主語を包摂する世界観がある。民藝の世界では、染色家の志村ふくみさんは「(色は)私のところにやってくる子供のようなものだ」と言い、河井寛次郎は「仕事が仕事をしています」と手の中の仕事を表した。
17世紀、デカルトは「私という存在」を「我思うゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」と表現した。「思う(cogito)」ことが存在を規定する、自己完結した存在論を確立したようで、彼は生涯を通して「思うとは何か」を問い続けた人であり、デカルトによる究極の答えは「神」の存在に帰結する。
デカルトの「存在論」は、フランス革命へと向かう社会の中で、「神がなくとも理性があれば存在できるのだ」という権力の説明原理として政治に利用され、"一人歩き" を始める。それまでの絶対王政は、権力は神から授かるものであるとする王権神授説によって成り立ってきたが、デカルトの存在論は、革命に向かう民衆の「理性を持った私たちこそ主権者である」という思想を支えた。
このように、近代国民国家の原初には、「意思(Will)」による存在としての人間観が深く突き刺さっている。現代の政治システムにおいて、主権を守り、民主主義を生かしながら、いかに「意思」にまつわる課題を克服していくかがこれからの道のりである。
東洋からつくる不二の未来
EUが西洋という概念を一つにまとめ、今日まで80年の平和を維持できたのには、共通の土壌としてキリスト教があったことは大きい。果たして、東洋においてはどうか。岡倉天心は『東洋の理想』(講談社)の中で、宗教性や文化の多様性をもって、なお一つであるという「不二一元(アドヴァイタ)」を東洋に見出した。本来一つであるものが、多元的に現れているのがこの世であるという世界観から提唱された、「アジアは一つ」であった。
ガンディはこれを山に例え、山頂(真理)に至る道は多様にあるとし、道の複数性を認める多元主義的な一元論を、アジアにおける存在論の根本にみた。他にも、南方熊楠や孫文など、私たちの背後には、こうした存在論をもって東洋の未来を描いてきた数々の先人たちがいる。
「私」「意思」「個」「所有」といった概念が存在を存在ならしめる現代社会において、いかにしてそれらを緩め、中動態・与格の世界観を呼び戻すか。仏教、日本、東洋という枠すら越えて、心強い祖先らと共に、今できる創造をしていこう。
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