「悪人正機」と「性悪説」
『Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』著者のルトガー・ブレグマン氏と対談する機会を得た。オランダ人なのでオランダ大使館の後援が入っているが、ちょうど光明寺とオランダ大使館が隣接しているという縁もあり、対談場所はお寺でやることとなった。
著者のことは寡聞にして存じ上げず、対談することが決まってから本を買って読むという体たらくだったが、読み始めるととても面白く、今を生きる人類必読の書であると思うほどだった。
読んだことのない人のために、本の概要を引用しておく。
対談にあたり、どんな話をしようかと考える中で、ここは親鸞の「悪人」の思想を振り返ることとなった。
ブレグマンの本の中に「恥」「悪」「信」といったキーワードが出てくるのだが、これらは、親鸞が自著の中で何度も使った言葉でもある。
ふと、「親鸞の思想は、性悪説と呼べるのか?」という疑問が湧いた。『歎異抄(たんにしょう)』の中にある「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」で有名な、親鸞の悪人正機説。
一見、徹底的に自分の悪人性を見つめる親鸞は、性悪説=人間一般の本性を「悪」と捉える思考を持っていたようにも感じられる。
でも、それは多分、誤解だ。
親鸞は、「私の悪人性」を徹底的に掘り下げるところから世界と関わったのであって、「あの人の悪人性」や「人々の悪人性」について語ったわけではなかった。誰かのことを語る時にも、「私たちの悪人性」として語ったと思う。
どんな時もまず、私から始めること。その姿勢は、同じく『歎異抄(たんにしょう)』の中にある「ひとえに親鸞一人がためなりけり」という言葉にも表れていると思う。
ふと、親鸞は、あえていうなら、むしろ究極の性善説に近いかもしれないとも思う。親鸞は、自分の中に、頼れる確かなものは何もないと自覚する。凡夫である私の中に、確固たるものなど、何も見出せない。そんな私が仏を気まぐれに「信じる」と言ったって、何の意味もない、とする。
そうして、私の中の悪人性を突き詰めていったところで出会うのが、この、どうにもならない救いようのない私こそを目当てとする阿弥陀仏の救いであり、そこに、(確かなものなど何もない)自分の中から出てくるのではない、いただきものの「信」が定まる。私の悪人性を突き詰めて見て、その自覚が100%凝縮する時、暗黒は反転し、光で満たされる。
「救いようのない私の極悪性を自覚」した上で、「その私という極悪人が救われた」体験を持つ人は、世界をどんなふうに見るようになるだろうか?
まず、恐れが減るだろう。「何があっても大丈夫」「大丈夫じゃなくても大丈夫」な土台の上に人が立てば、怖いものはない。もちろん、怖い時は怖い。でも、怖くても大丈夫。怖いと感じていることを、受け入れればいい。
『Humankind』では、「プラセボ効果」と「ノセボ効果」について語られている。「病気に効く薬だ」と言われて飲むと、それがただのデンプンの塊だったとしても、本当にポジティブに効いてしまうのが「プラセボ」効果であり、同じメカニズムでネガティブに効くのが「ノセボ」効果だ。
親鸞の思想は、「極悪人の私」を極大化することで、他の人の悪人性について思い悩む必要がなくなり、結果的に、普段私たちが自分の脳内で繰り返してしまっている、自分で自分にかける呪いのような反復ダメージの悪循環を、断ち切る効果を生むのかもしれない。
また、「極悪人の私」を自覚することから、「恥」の気持ちが生まれる。自分の能力や知識など世界全体からすればほんの僅かだし、直接的に影響範囲も限られていることを知っている。そうすると、自然と謙虚なリーダーシップが身に付くことになるだろう。
『Humankind』では「(扇情的な)ニュースを見るよりも、穏やかな日々の対話を深めた方がいい」と言う。「極悪人の私」であればこそ、(ゴシップ)ニュースを見ようとする気持ちも減るだろう。人は、時に、他人と比較して「まだ自分の方がマシだ」と優越感に浸るためや、羨ましいと感じている誰かが叩かれているのを見て「ざまみろ、調子に乗るからだ」と引き摺り下ろすために、ニュースを求める。しかし、親鸞の思想を徹底すると、自分と他人を比較したいという気持ちが、湧きにくくなる。いわゆる「承認欲求」が、自己の悪人性の自覚と共に溶けていくのだ。
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