見出し画像

仏教はOSか

人の行動や意識を司るような、身体や精神に染みついたあり方、考え方、行為など、よく、コンピューターのOS(オペレーティングシステム)やアプリケーションになぞらえて語られる。考え方をあらためることを「OSを入れ替える」と表現したり、人生の転機を迎えて「これまでの価値観をアンインストールして、新たにインストールし直す」ーーといった具合に。
 
宗教もまた、その人の世界観や死生観にダイレクトに紐づくことから、人が生きていく根底で稼働を続けるOSに喩えて説かれるシーンも度々ある。
 
世界の宗教は、民族や土地、血統など、人のアイデンティティを成す特定の何かと結びつきやすい。実際に、そうした宗教はたくさんあって、ヒンズー教は土着性、ユダヤ教は民族性が色濃い一例と言えるだろう。仏教はというと、そうした結びつきの強い宗教とは、態度や様相がすこし違うように思う。土着の仏教も確かにあるが、入り口は八方にひらかれていて、他宗教の信徒であっても、学びを求めて仏教に出逢う人々は今、世界中に多くいる。仏教自身が「縁起」という発想を大事にしているように、仏縁は縁起の自由な展開に任されている。
 
仏教徒であるかを問う必要性は、もはやない。
 
 
世界(特に欧米)には、仏教の智慧を身につけようと、学びを深めるユダヤ教の人々が数多くいる。彼らは自らをJewBu(ジュブ=Jews Buddhistsの略)と呼んで、ユダヤ教と仏教が、相互に影響を与えながら共にある一つの生き方が創生されている。また、米国ユタ州ソルトレイクシティは、モルモン教の街で知られるが、モルモン教の活動としてソーシャルビジネスを展開する敬虔なモルモン教徒の友人も、仏教に関心を寄せ、学びを求めている。
 
参考:『American JewBu』Emily Sigalow著

 
 冒頭の喩えになぞらえるなら、OSを変えずとも、仏教はそこに学ばれ、生かされるということだ。どんなOSのうえにも、バッティングすることなく融合する可能性にひらかれている。

 かつて、Windowsにはデフラグ(defragmentationの略)といって、記憶媒体に溜まった不要なデータを消去して、断片化したものを整理し直す機能があった。今、こうして作業しているあいだにも、常に膨大な履歴とキャッシュデータが蓄積されている。放っておくと、ある時点で明らかな不調が起き始める。
 
何かが活動するときには必ず、エネルギーの循環と代謝がある。何かが極端に傾けば全体に影響し、暴走や混乱を伴いながら、部分と全体の機能は落ちていく。そのまま放っておけば、いずれ動きは止まり、熱が失われて、死に至る。熱力学では、エントロピー増大の法則と呼ばれているようだ。
 

ここから先は

477字

このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

"Spiritual but not religious"な感覚の人が増えています。Post-religion時代、人と社会と宗教のこれからを一緒に考えてみませんか? 活動へのご賛同、応援、ご参加いただけると、とても嬉しいです!