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産業僧から見える終身雇用制の崩壊「本音と建前」

「産業僧」の取り組みに、新展開。

クライアント企業の社員との僧侶対話の数が増えてきて、自分一人ではどうにも回らなくなってきたのと、今後の発展を考えた時に複数名の僧侶で依頼を分担して実施する必要があることを見越し、思い切って、産業僧を増やしてみることにした。

とはいえ、まだ「産業僧とは何か」を探りながら型出しをする段階であり、自分自身まだ対話に臨む心構えなど確立しているわけでもないから、対話を指導できるほどのものもない。はて、二人目の産業僧は誰にお願いすればいいだろうか・・・とその時、「対話する僧侶といえば、プラユキ・ナラテボーさんがいらっしゃる」ことに思い至った。

しかし、プラユキさんといえば、タイ仏教の僧侶であり、衣の色も日本のお坊さんと違う。社員が会社から「ちょっと僧侶と対話してみて」と言われて、ちょっと戸惑いつつよくわからないままzoomに入室したら、いきなり偏袒右肩(右肩を露出している上座部スタイル)のお坊さんがいたら、二重に戸惑うかもしれない。名前もカタカナだから、一見、日本人なのかどうか、日本語が通じるのかどうかも、不安になる人がいるかもしれない。

でも、これまで数え切れないほどの個人面談の経験を積まれてきたプラユキさんに勝る方は、どう考えても他にいない。何より、僕自身が、プラユキさんから対話について学んでみたい。そう思って、プラユキさんにご相談してみたところ、ご快諾いただけた。

その後、プラユキさんはいくつかの対話をこなし、すでに早速素晴らしい実績を挙げていらっしゃる。このnoteでもまた報告記事など書いていきたい。

産業僧として大切にしているのは、問題の責任を個人に押し付けない、ということだ。

人と人とは関わり合いの中で存在しており、関わり合いの縁の数だけ、私は異なる「分人(dividual)」を持つ。あるいは、私という存在は、そうした分人をかき集めたところに立ち現れてくる縁の結ぶ目である、と言っても良いかもしれない。

企業ではとかく、何か問題が起こると、やれ誰の責任だ、やれ誰のパフォーマンスが落ちている、やれ誰の能力が低い、だのという話になりがちだ。確かに、そういう側面もあるかもしれないけれど、しかし、その人がそうなったことだって、さまざまな人や環境との関わりの中でもたらされたことでもある。僕はそのように仏教の視点から、問題を個に還元するのではなく全体として眺めるようにしている。

さて、産業僧の1on1対話を通じてひとつ、感じたことがある。

終身雇用制の終焉と、それに伴って必要となるトランジションに関することだ。


時代の変化とともに、昭和型の組織が令和型へと脱皮しようとする中で、かつての成功パターンから抜け出せない社員が意固地になってパワハラ・モラハラに走ってしまうようなことは、多くの組織で見られる問題だろう。こうした問題は、僕が思うに、終身雇用制の崩壊と関係している。

あまり意識されていないかもしれないが、終身雇用制が終わるということは、ムラ社会が終わるということだ。

終身雇用制が当たり前だった時代、ある企業に就職することは、その企業のムラ社会の構成員となることであり、自分の人生の全てをそのムラ社会に捧げる代わりに、会社から一生涯の面倒を見てもらうことを意味していた。もちろん、あるムラを出て別のムラへ移ることは可能だが、どのムラも閉鎖的で年功序列の社会制度を作っているので、古株社員ほど幅を利かしている。ムラ人たる上司や同僚は家庭にまでは入ってこないとはいえ、冠婚葬祭にも強く関与してくるし、転勤などでは問答無用に家族も含めて会社に引き摺り回される。そしてもちろん、言うまでもなく、複数の企業=複数のムラに同時に属することは、ご法度だ。

そこでは一律に、人生を会社に捧げる姿勢、少なくともその「フリ」を見せることが求められた。こうした日本人の「本音と建前」の文化を前提に成り立つムラ組織には、仏教的に見れば、身口意(しんくい)の不一致が蔓延している。

ところが、ここへ来て、終身雇用制が終焉を迎えている。

グローバルでのコスト競争が厳しさをます中で、トヨタですら終身雇用を背負えなくなっている。会社が社員の暮らしやその一生を丸ごと請け負おうとすること自体が、不可能なのだ。社員が一つのムラに所属して、その人生を捧げることは、もはや誰にとってもハッピーではないのかもしれない。企業側も、「長く勤め上げてもらう」ことより「今、能力を生かす」ことを望む人事施作にシフトしている。


にもかかわらず、相も変わらず多くの日本企業では、未だ雇用する側もされる側も、在籍する限りは人生を会社に捧げるフリをすることが当然の作法のようにみなされていて、かつての「本音と建前」の文化だけが、ねじれた状態で残っている。

今、かつての日本型企業では、社員も会社も、それぞれの本音と建前が乖離し錯綜して、身口意(しんくい)が引きちぎれてしまっている。

結果、不思議なことが起こっている。

本来、欧米流のジョブ型雇用は、社員が会社と契約した要求を満たせばOKで、満たせなかったら簡単にクビになる、ドライな仕事文化だ。社員と会社はあくまで契約で繋がった関係でしかない。だから、外資系企業などでは、自分の仕事が終わった社員はサッサと帰るし、有給なども権利として遠慮なく行使するとよく言われる。ムラ社会の色合いは薄いから、会社主催の運動会もなければ、社員同士で冠婚葬祭を支え合うこともない。

しかし、だからといって、外資系の企業の社内の雰囲気が殺伐としているかといえば、必ずしもそういうわけでもないだろう。繋がりの起点が「仕事」にある関係性において、共によりよき仕事をつくるにあたって、本音と建前を必要以上に使い分けることは不要だ。むしろ、本音と建前の不一致が、創造を妨げることもある。協働する同士として、もしくは、たまたまバス停のベンチで隣合わせになった人とおしゃべりするように言葉を交わしても良いだろうし、気が合う人がいれば友達付き合いをすることだってできる。無理な前提がなければ、誰もが本音で話しやすい。

一方、本音と建前がぐちゃぐちゃになってしまった日本企業では、滅びゆくムラの掟がいまだに場を支配していて、皆が窒息しそうになっているように見える。本来は、和気藹々とした護送船団的企業コミュニティを守る仕組みだったはずの終身雇用制や年功序列という前提が崩れつつある中で、良き社会人としてどこまでその前提を「建前」として尊重しなければならないのか、誰にもわからなくなっている。結果的に今、外資系企業よりも日系企業の方が、人間関係が冷え切ってしまい、殺伐とした空気に満ちているように感じる。

おじさん世代のパワハラ・モラハラが多くの企業で問題になっているのは、何も近年、かつてと比べてハラスメント判定基準が上がってきたからというだけではないかもしれない。昭和の古き良き終身雇用制と年功序列を信じて今まで頑張ってきた人たちにとって、近年の日本企業の方針転換は受け入れがたく、働き方も昭和型から令和型へと転換を要求される中で、彼らが最後の断末魔の叫びを上げているようにも見える。

会社に従順で真面目な生え抜き社員ほど、苦しんでいるのではないか。彼らは、新卒から叩き上げてここまでやってきたという自負もあるし、会社への恩も感じている。ムラが崩壊しつつあることには気づきながらも、かつての「良き会社人」であることを続けようとするあまり、心身に無理が生じている。にもかかわらず、ムラから離れるという選択肢を持ち合わせていないため、そこから抜け出せるのは、いよいよ心身が限界を超えて崩壊して物理的に働けなくなる機会を待つのみ、という悲劇。

しかし、諸行は無常。過ぎ去った時代はもう戻らない。産業僧としては、一人一人の内面に働きかけ、人生のトランジションを促していきたい。そしてまた、「本音と建前」の乖離を解消し、誰もが自分本来の声を出せるような組織文化への変容に貢献したい。

同じようなことがきっと、企業組織だけでなく、広く日本社会全体にも、当てはまる部分がありそう。産業にとどまらない仕事の現場も開拓していこう。


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