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どうしても選べない浄土真宗の信仰

「なぜ浄土真宗を選んだのですか?」

時々、聞かれる質問だ。
実は、自分としてはそんなに選んだつもりはない。

「お坊さんになりたい」と思ったのは確かだけれど、そう思う縁となった当時の友人(小池龍之介さん)づてで訪ねたのが、たまたま光明寺(西本願寺)だったというのが大きい。その時、北海道の祖父が住職をしていたお寺も浄土真宗(東本願寺)だったから、まぁ、同じ浄土真宗だし、どうせ坊さんになるなら、それはそれでなんとなく収まりが良いかな、くらいの感覚だった。

僧侶になってからは、浄土真宗を入り口として仏教を学んだけれど、親鸞の思想に特別惹かれたわけでもなかった。親鸞からも学ぶことはあったけれど、「親鸞以外に師はなし」という感覚は全くないし、道元や空海など他の祖師方、あるいは仏教の僧侶や宗教者に限らず、幅広い求道者への興味は尽きずに今に至っている。文化で言えば、いろんな宗派のいろんな僧侶との出会いを通じて、むしろ現代の浄土真宗の画一的な教団文化よりも豊かに感じられるものにたくさん出会った。とはいえ、「他の宗派を羨む」とか「宗派を変えたい」とか思うことはない。気づけば、自分の辞書の中に「他宗」という言葉は存在しなくなっていた。自分にとって、「浄土真宗(本願寺派)の僧侶」というのは、もはや、戸籍における「本籍」くらいの意味しかない。

最近は、「僧侶」というのも、どうかなとも思う。なんとなく、しっくり来ない。「僧侶のグローバルスタンダードに照らして、日本の僧侶は戒律を守っていないから、僧侶とは呼べない」とか、「いやいや、日本においてはそうした世俗性を含みこむ形で、大乗菩薩道の実践者としての僧侶の在り方が発達したんだ」とか、色々な論じ方がなされるけれど、僕としてはそのどれかというわけでもない。ただただ、しっくり来ない。親鸞が「非僧非俗」と言ったのも、そんな、しっくり来なさだったのかもしれない。


自分のことを「僧侶」とも言い切れないような私の信仰はどこにあるのか。

そこは何だかんだ、念仏道に落ち着いていると感じる。
「浄土真宗」という宗派に信仰があるか、と問われると、それはあまり、しっくり来ない。元々、親鸞は、師である法然が開いた浄土の教えこそが「浄土の真宗である」と世に伝え広めたいが故に、たくさんの書き物を残した。京都にある法然院の梶田住職は、「法然と親鸞を合わせて一人格と見ていく念仏道」を説かれるが、それはとても腑に落ちる。僕にとっての念仏道は、宗派組織の所属とは全く紐づかない。自分が「浄土真宗」に属するか「浄土宗」に属するかは、本籍の違い程度の意味しかない。もちろん、「どのような仲間と共に生きるか」というコミュニティ(サンガ)は大切だと思っている。しかし、自分にとってそれは、本籍に関係なく、実際に深い時間を共にした道の人々との具体的なつながりのことだ。たとえば、本籍地で括った「浄土真宗本願寺派を本籍とする僧侶だけの集い」よりも、テンプルモーニングラジオで一緒に深い時間を過ごした人とのつながりの方が、はるかに重要な私のサンガになっている。

では、僕は「念仏の信仰者」なのだろうか? それもあまり、しっくりは来ない。「非僧非俗」と言った親鸞は、自らを「愚禿(愚かな禿げ)」とも称した。その心は、賢い他人と比べて頭の悪い自分を卑下するような話では全くなく、要するに、「当てにならない自分の有様」を言ったものだろう。一瞬前の自分と今の自分では、考えていることや感じていることが、もう違う。そんな当てにならない自分が「これこそが自分の道である」と選び取った信仰など、一体どう当てにしたら良いというのか、「これが私の生きる道であると、信じる私自身を、信じられない」時に、人はどうしたら良いというのか。

お手上げする他ない。

そこにこそ用意されているのが、数多ある仏道の中の、念仏道だ。この仏道は、実は、選ぶものではないのだと思う。選ぶべきものでもないし、選べるものでもない。「選ぶ」ことを断念・放棄したところにもたらされる、思いがけない僥倖のようなものとしてしか、あり得ないあり方の、念仏道がある。「私が選ぶ」という事態を信じられる人は、「これが私の生きる道」と信じる道を、選べばいい。お題目でも、坐禅でも、真言密教でも。

しかし、ここでまた面白いのは、「これが私の生きる道」という意識において、念仏道を選ぶこともできるということだ。「私が選ぶ」という意識の中で、実践する念仏道もある。極楽往生を願い、念仏をたくさん称えることもまた、良いだろう。でも、それも含めて、「私が選ぶ」自体が信じられなくなった時にまた、セーフティネットのように現れてくる念仏道がある。「私が選ぶ」念仏道と、それを断念・放棄したところにもたらされる念仏道、どっちが良いも悪いもない。いずれにしても、その時の私をめぐる縁によって、結局のところ、何かしらの形で、この私は仏の網に引っかかっているということだ。「私たちは皆、仏の掌の中にある」というイメージは、そういうことかもしれない。

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