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NO-SELF Cultivation

江戸〜明治期、開国のタイミングを迎え、列強諸国を前に国家としての力を付ける必要に迫られるなか、国を耕すためにも人々には「修養」が求められた。

修養に英語を当てるならば、「SELF-Cultivation」。自分を耕すということだ。仏教に寄せて捉えてみれば、まずは「養生」により自己治癒力を引き出して、その上で自利利他円満な状態に理想を見出す「修行」を行う。これは、他者のためにはたらきかける菩薩業とも言えるだろう。この「養生〜修行」のサイクルの上に、わたしたちのWell-Beingが立ち上がる。

哲学者・西平直先生は「日本人の "SELF-Cultivation" は、"NO-SELF(我れなし)" に向かっているのではないか」と仰っている。ブッダは、生涯を通じて2回、涅槃(ニルヴァーナ=悟り)に入られた。涅槃とは、あらゆる執着から離れた「NO-SELF」の境地だが、1回目は35歳の時、苦行を離れ菩提樹の下での瞑想によって、2回目は、80歳で死を迎え大涅槃に入られた時に当たる。

仏教の教えは常に、一才の執着を手放していくことを示しているが、生きていれば自然とSELFは立ち上がり、人目を気にしたり、承認欲求が湧いたり、なんらかのこだわり、つまり執着が生じてくる。仏陀のように "NO-SELF" には到底なれない凡夫の私たちは、永遠に達成し得ないゴールに向かう未完成な存在だ(「達成した」感覚は、私たちのスッキリしたい脳が創り上げるフィクションであるかもしれない)。そうして未完成でありながらも仲間を助けようと生きる様は、菩薩の姿と言えるだろう。

"NO-SELF" へと向かう「死と再生」の修養サイクルの生涯を終える時、私たちは一つ、"NO-SELF" を達成するが、こうした菩薩道を生きるには、SELFと執着の掃除を続ける自己メンテナンスが欠かせない。「今日が人生最後の日なら?」と毎朝鏡の自分に問うたスティーブ・ジョブズの習慣は、日常にある「死と再生」の儀式(日々の修養)と言えるだろう。普段、私たちはつい、会社やチームなど、所属先のリミッターの中での貢献を目指しがちだ。むろん、会社への貢献は社会への貢献に通じているが、いかなる研修も人材開発教育も、リミッター付きであっては役割の目的を果たすことに留まってしまう。会社というゲームに乗る前に、広い世界に貢献し得る一人の人間存在である視座を忘れずにいたい。

現代社会は、「リアルな死」を実感できる機会が極端に少なくなった一方で、仮想空間には「ゲームオーバー」や「リプレイ」あるいは「強制終了」が溢れ、物事の始まりや結末までコントロール可能かのような幻想を抱きがちだ。幻想に逃げ込みながら生きる道の苦しみは「人」との関わりにいよいよ凝縮されて、多くの私たちは人間関係に苦しんでいる。けれど、想像してみてほしい。一歩、山へ足を踏み入れるとどうだろう?様々な木々が繁り、足元には無数の虫や微生物が生息している。根上がりした樹木からは、新たな生命が芽吹いていたりする。空気を呼吸して生かされているのは人間だけじゃない、そんな至極当然の事実にハッとさせられる。

特に都市生活においては、人間関係(しかも自分の関わりのあるごく限られた人間関係)が世界のすべてのような錯覚に陥りがちだ。自然や死など、人生を超えていくトリガーに出逢う機会がないなかで、自分の視野が何らかの世界にロックインされていることにどうしたら気づき、抜け出すことができるだろうか。思考で模索し、「ゲーム」を新たな「ゲーム」に取り込んでも仕方なく、身体感覚や感性の気づきをもって正気を取り戻していきたい。この瞬間にも、私たちは呼吸を繰り返し、身体は食〜消化吸収〜排泄の過程にある。細胞は入れ替わり続け、絶えずリアルな生死を繰り返している。自他の境を超え、その生死を含みながら循環のなかに存在する様を見つめてみれば、もはやどこからどこまでが「私」とは言えない命を生きていることを知る。その時、自分がSELFのロックイン状態にあったことに、ふと気づかされることもあるだろう。

SNSでの「繋がり」は広がり、働き方や家族の在り方が多様化する一方で、「身内で済ませたい」という人々の意識とコロナによる制約が相まって、葬儀や法要の場はいよいよ血縁に閉じられつつある。死が限られた関係性にロックインされることは、生のあり方にも影響していくことだろう。こうした風潮にあるからこそ、誰もが誰もを弔うことのできる場を、お寺からもつくりたい。様々な役割、多様な関係性(分人)を存分に生きる選択があるのなら、死の迎え方も、それに相応しい選択肢があっていい。

世界で最も老舗が多い日本の商いの背景には、SELFの短期利益(小欲)に偏らず、風土や社会とのご縁と共に、長い目でみて「三法よし」を志す大欲の精神がある。大欲を広げ、創業者の哲学やご先祖さまの視点を尊重するには、見えない、わからない、コントロールしようのない、SELFを超えたものに任せる「他力」の姿勢がなければ果たしようがない。上手に身(SELF)を投げ出して、わからなさに開かれることで生まれるポリフォニー(異なる声とリズムでそれぞれの旋律を奏でる多声性音楽)をもって大欲を育んできた風土が日本にはある。このユニークさをガラパゴスに閉じこめず、私たち自ら、実践を通して再発見していこう。上手に表現することで、世界の潮流に接続できるのではないか。それぞれに異なる視点であっても、接続し合う時、少なからず互いに影響を与え得る。

「いずれ祖先になる私たちが、いかによき祖先(アンセスター)になるか」という視座から見つめ直すことは、故郷の価値を再発見し、耕し直すきっかけになるだろう。UAEには、未来人をステイクホルダーに取り入れて政策決定を行う「未来省」があるという。日本からは、未来と同時に、過去(死者)を取り入れる提案ができそうだ。


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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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