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焼却、腐敗、発酵


ヒューマン・コンポスティングへの熱から、生物の腐敗や発酵といったテーマがにわかに気になってきた。

友人から勧められた本や記事を色々と見ている。

▼『分解の哲学: 腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社、藤原辰史著)

藤原先生といえば、コロナに際して書かれた名文が話題となったのが記憶に新しい。

本書も「分解」をめぐって縦横無尽に語る様が素晴らしく、誰にもお勧めできる一冊だ。個人的には、この本を通じて描かれる「分解者」には、掃除のおじさんから地中の微生物までを含んでおり、図らずも、僕が近年主題としている「掃除」と「オーガニックな葬送」を結びつける概念として、得るところがあった。

積み木を崩してはカラカラと笑い転げる乳幼児、自分の破壊を望むことで初めて愛を覚えたロボット、地球上に増殖した知性を有する山椒魚、土の芳香に酔いしれるアマチュア園芸家、路上に落ちている縄を拾う恥を捨てて初めて聖母マリアの声を聞いた大学教授の娘、崩壊する満州国から命からがら逃げバタヤ部落に行き着いた一家、「糞の中の宝石」と呼ばれる金緑色の糞虫、川を昇って森の動植物の餌に昇華する無数の鮭、祖母の家の解体で生じた「産業廃棄物」を味わいある建築資材に変え「減築」した建築家、器のほつれを漆で接合する金繕い職人、壊れたものにこそ創造力がくすぐられるナポリ人、壊れた掃除機を自力で修理した私、そして、東京の公共住宅で働く掃除のおじさん。人間非人間を問わず、本連載で登場したこれら分解者たちに共通するのは、人間社会では負の烙印を押されるものを、どちらにも転びうる中立的な存在へと転換する作用の担い手であることだ。

多種多様な植物と子どもが一緒にくじけてはまた育つ幼稚園、ミミズが這い園芸家が指でほじくり糞虫が糞のベッドを赤子のためにこしらえる土壌、戦争や経済活動によって社会からこぼれ落ち集まってきた人々が所有権を失ったゴミを宝に変えるバタヤ集落、大きな動物から微生物までが参加してクジラの死体を食い尽くす大海のリサイクル・セレモニー、使いものにならない壊れものを時間をかけてつなぎ合わせ新たな模様を生じさせる職人工房、こういった分解の場(にわ)に共通するのは、根本的な形態転換の祝祭性、さまざまな生物がよってたかって食べ尽くすという残酷で、鳥肌が立つような賑わいのかたちである。

このように、全体のための機能を付与されていた要素を、潜在的にあらゆるもののために及ぼしうる作用を持つ要素に変える存在たちが集まってくること。私は、これを分解の饗宴と呼びたい。

(『分解の哲学: 腐敗と発酵をめぐる思考』P310-311)

「生産者」と「消費者」を対置して営まれる経済活動は、実はそれだけではサイクルが完結しない。これまでの経済学ではほとんど無視されてきたが、「分解者」が存在して初めて、そのサイクルが回りうる。そして、人間であれ動植物であれ、自身の存在を「生産者」「消費者」「分解者」という三相のうち一つだけのあり方で存在しているものはおらず、誰もがその三相を同時に持ち合わせている。

僕自身も、ある面では生産者だし、ある面では消費者だし、ある面では分解者だ。しかし、現代社会では、生産者であることと消費者であることは、日常の中で意識する機会がたくさん与えられているけれど、自分が分解者であることを意識する機会は、少ないのではないか。

そのことも関係しているのだろう。光明寺で開いているテンプルモーニングや、Nestoでやっている「掃除巡礼のリズム」の仲間に、ヒューマン・コンポスティングの話題を振ってみたら、とても反応がよかった。日頃の掃除を通じて、知らず知らずのうちに、「分解者」としての自分の側面が開いてきているからかもしれない。

そんな折、「発酵」界隈では有名な、京都にある「カモシカ食堂」から、イベント登壇の依頼が来た。カモシカ食堂を運営する関恵さんはには、もう15年ほど前だろうか、僕が当時やっていたウェブマガジン「彼岸寺」(higan.net)で『おじいちゃんへの質問』という連載を持ってもらっていた。彼女はもともと、浄土真宗のお寺の孫で仏教に関心があり、北海道の大学に通われていたりと何かとご縁があったのだ。以来、すっかりご無沙汰していたが、「仏教と発酵について、トークしてもらえませんか」と連絡をもらって驚いた。1年前だったらそんなテーマで話せる気がしなかったが、今なら「発酵的葬送」について、話したい。


ここ数年、「発酵」はブームと言っていいのだろう。

博報堂の友人、市来健太郎さんは、数年前から「発酵、発酵」と言い始めて「発酵醸造未来フォーラム」を開いたし

発酵デザイナーの小倉ヒラクさんも活躍している。


実は、「腐敗」と「発酵」を分けるのは、科学的な線引きではなく、見る人の視点だ。

発酵と腐敗の違いとは、人間が人間の視点で決めたこと。どちらも微生物の力によって物質が変化することをいうのですが、それが人間にとって有益なものであれば発酵、有害なものであれば腐敗ということになります。とはいえ、この2つは文化的な観点から見ると曖昧になってきます。
 例えば、日本人にとってはなじみ深い納豆やくさやといった発酵食品も、海外の方から見たら腐った物だと思われがちですし、逆に日本人から見たら、『世界一くさい食べ物』といわれているスウェーデンのシュールストレミング(塩漬けにしたニシンの缶詰)は腐っているとしか思えなかったりしますよね。体にとっていいのか悪いのかという以前に、食べられないという人も多いと思います(笑)。そういう意味では、文化の違いで相容れない部分もあり、絶対的な線引きが難しいところ。微生物にとってみれば、ただそこで生きて活動しているだけなんですけどね(笑)

*引用元:マルコメ(株)ウェブマガジン『発酵美食』


勝手なイメージだが、現代においては「火葬」は「焼却」、「土葬」は「腐敗」のイメージが強いような気がする。日本においては、ほぼ「焼却」一択なので、特別に意識されることはないけれど、それでも僕らは無意識下で傷ついているんじゃないか。かといって「土葬」だと、なんだか気持ち悪いとか、落ち着かないとか、腐敗の悲しみがつきまとう感じもする。焼却にしても、腐敗にしても、役に立たないもの=ゴミ、というイメージは重なる。

そこに第三の道、「発酵」という選択肢が浮上したら、どうだろう。選びたい人は少なくないはずだ。

違いは何か。

「人間にとって有益なものであれば発酵、有害なものであれば腐敗」ということだったが、葬送の方法に関しては、「残された遺族や人間という種を超えて、地球生命にとって有害ではない方法で、それを想うと安心する、心地よい気持ちになれるーーそんな葬送」であれば、それは発酵的な葬送と呼んでいいのではないかと思う。

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