対機説法
産業僧では、「なぜ僧侶なのか?」ということが、しばしば問われる。
コーチングでもなく、カウンセリングでもないという僧侶対話は、いったい他と何が違うのか?と。
そんなとき僕は、僧侶の「Perfect Stranger(完璧な見知らぬ他人)」としての稀有な存在感のことを話す。
というのも最近、この「見知らぬ他人」とのおしゃべりの効能が、あちこちで注目されるようになってきているからだ。
『クーリエ・ジャポン』の記事が参考になるだろうか。
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また、僕が購読している『Lobsterr』というメルマガ(購読無料。おすすめ!)に先日「見知らぬ他人と話すことの効能」というタイトルの記事が載っていた。
ネタ元はこちらのNY Timesの記事だとか。
そのように「見知らぬ他人」という観点から見ると、僧侶という存在は、日常、ほぼ接することがなく、見るからにこれからの人生でも利害が交わることのなさそうな、いかにも「完璧な見知らぬ他人」という感じが満載なのが、いい。
とはいえ、「見知らぬ他人」だからこそ、難しさもある。
Lobsterrの記事には、こう続く。
そう。ただの「見知らぬ他人」であれば、だからこその危険性もあるし、対峙した時に恐怖心も湧くというもの。それももっともな話だ。
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その点、僧侶には、もう一つ形容詞を付けられる利点がある。僧侶は「Trusted Perfect Stranger(信頼できる、完璧な見知らぬ他人)」として、相手の前に現れることができるのだ。
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