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貨幣への依存度を下げるために必要なこと

大分県の国東半島は古く火山活動によって生まれた半島だ。その中心にあるのが、天台宗の古刹、両子寺(ふたごじ)だ。国東には狭い範囲に数百のお寺が密集し、小さな祠なども含めると数万という神仏がひしめく、信仰の篤い風土だ。夏休み中の子どもを連れて、家族で訪ねた。

半径30km余りの整った円錐型をした半島の真ん中に、両子寺はある。つまり、半島の中で最も標高が高く、山を降りて人里へ出るのに最も遠い場所だ。しかし、逆に言えば、半島の海岸線に沿って点在するどの町からも同じくらいの距離で、放射状に広がる道路からアクセス可能となっている。そのため、国東半島のあちこちに、「両子寺」を指す看板を目にする。

ここのお寺のお坊さん、寺田豪淳さんによくしてもらい、お寺の境内にある「森の家」に宿泊させてもらった。夜は地元の檀家さん方からいただいた野菜などを囲炉裏で焼いて食べながら、お寺や地域の歴史や文化について、あれこれ話した。旅先でその土地のお坊さんと食事を共にし語らう時間は、とても贅沢だ。


僕は、お寺が好きだ。

自分のお寺を持っているわけでもないし、お寺に住んでもなく、お寺で働いているわけでもないけれど、まぁ、ファンというのだろうか、もし日本にお寺がなかったらこの国に住む意味はもはやないと思うくらいに、自分の人生になくてはならないものだと感じている。

なぜだろう。その空間に「1/f ゆらぎ」が満ちているからだろうか。


そういう意味では、神社も好きだ。でも、なぜだろう、どちらかといえば、やはりお寺の方が好きな気がする。話をするときに「神社仏閣」とまとめてしまうこともあるし、実際かつてはお寺と神社は神仏習合で一体化していたのだから(国東半島のお寺群などはその好例)、あまり厳密に分ける必要もないのだろうけれど、振り返ってみると、お寺の方がより惹かれるものがある。

あえていえば、神社で好きなのは、社(やしろ)がしっかり建てられたものよりも、自然そのまま剥き出しになったご神体にしめ縄がかけられているだけ、みたいなワイルドな種類のものだ。コーヒーやハイボールは薄めより濃いめ、ラーメンはあっさりよりこってり、温泉なら源泉掛け流しの方が好きだから、まぁそういう好みなんだろう。

神社にしてもお寺にしても、その場所をその場所たらしめんと工夫を重ねる人々の息遣いが感じられる場所は、いいなと思う。「賢しら」ではなくて「工夫」がいい。「その場所をその場所たらしめんとする工夫」であることが大切で、それが目先の経営上の改善を狙った賢しらであったりするのは、長い目でみるとその神仏を守ることには必ずしもつながらないようにも思う。

コンサルタントを入れて、ロゴやフォントやテーマカラーを整えてブランディングすれば、「繁盛する神社仏閣」を作ることは、そう難しくはない。お守りも洒落たデザインでシリーズ化すれば、全種類コンプリートしたくなるような見せ方、売り方もできる。そういうのは、パッとみると「うわーきれい、かわいい、おしゃれ」と一瞬自分も思うけれども、そうして観光ガイドブックに掲載される場所になったからといって、いいことばかりではない気がする。

おっさんくさいことをボヤいた。

神社仏閣におしゃれさやデザイン性を持ち込むな、と言っているわけではない。そうした工夫は全く否定しない。しかし、それらの工夫は「その場所をその場所たらしめんとする工夫」であるべきであって、「その場所を利用して何かを得ようとする工夫」であるべきではない、と言いたかったのだと思う。

その意味で、神社仏閣の持続可能性を考えるときに、最低限の貨幣経済が回っていることも必要だけれども、それ以上に重要なのは、貨幣経済への依存度を下げて、その土地のエコシステムと同期しながらその神社仏閣のエコシステムが何らかの形で回っているような状態を保つことだ。それはつまり、それぞれ得意なスキルや、余剰の物資を持つ人たちが集まって、気持ちと知恵とを出し合いながら、交歓の中で神社仏閣を守り支えていくことなのだと思う。

そうしたあり方に向かっていくのに、大切な心構えがあると思う。それは、「思いがけなさ」に開かれていること。

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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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