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僧侶 / Ancestorist


これまでずっと、「僧侶」と名乗ることに、どこか違和感を持ち続けてきた。

それにはいろんな背景がある。

まず、一般的に「僧侶」というときに想像される、「住職」に近い意味合い、つまり、どこか特定のお寺に蟄居し、檀家に支えられて、檀家の先祖を守り、葬儀や法事といった死者供養の営みに奉仕する僧侶、という形では、私は僧侶としてほとんど活動していないこと。

また、一般的に「僧侶」というときに想像される「修行に励む人」という意味において、私が僧侶とししての本籍(僧籍)を有する浄土真宗ではいわゆる修行らしい修行は一切行わない(それどころか、むしろ避けるべしとする文化すらある)ため、イメージに齟齬があること。

さらにいえば、浄土真宗ではその教義の根本に立ちかえると、それが出家的な仏道の否定の上に成り立っているため、そもそも「浄土真宗の僧侶」というあり方自体が、矛盾を孕んでいること。

そうした背景を抱えながら、世界に出ていこうとすると、話はますますややこしくなる。

「僧侶=Buddhist monk」と表現すると、いかにも世俗から離れてMonastery(僧院)で修行に励む出家者の感じが強く出過ぎてしまい、実態と離れる。

かといって、「僧侶=Buddhist priest」と表現すると、Ritual(儀式)を司どる司祭っぽい雰囲気が強くなり、確かに日本仏教の「住職」のイメージには近いかもしれないが、自分の場合はいまいちはまらない。

そんなことを思って、ひとまずは「現代仏教僧侶=Contemporary Buddhist Monk」と表現したりするのだけれど、ますます迷走している感じもしている。

しかし、今朝、長年の問題が解決した。

「僧侶 / Ancestorist」

でいいのではないか。

名詞の日本語表記は「僧侶」で、英語表記は「Ancestorist」だ。

ちなみに、Ancestoristという英語は、検索すると「A proponent of ancestorism」という定義が出てくるが、ほぼ使っている人は存在しない。しかし、「Futurist」と名乗る人が世界にあれほど(過去記事参照)たくさん存在し、また、そうした場に私のような日本の僧侶が招かれるという文脈が存在しているということは、その対比として「Ancestorist」が存在しても良いということだろう。そして、Ancestoristは、過去に生きた先祖に心を向けるだけでなく、これから生まれてくる未来の人たちへも眼差しを振り向け、そして「いかにして私たちはよき祖先になれるか」と自らの現在を問うものであることにおいて、Futuristでもある。

そしてまた、そのAncestorには、過去に生きた偉大な先人たち全てが含まれる。Ancestoristは、先人たちから受け継いだいにしえの知恵の案内人としての役割もある。どんな人でも、自分が考えていることや語っていることが、先人のそれと響き合っていることを知ると、大きな力となる。

例えば、浄土真宗の系譜にある僧侶 / Ancestoristなら、もちろん、宗祖親鸞聖人の言葉を紹介するのも良いだろう。しかし、それはいわゆる宗派教団で言うところの「布教」とは違うものとなる。布教でないわけではないのだけれど、布教そのものとも言えない。宗派教団の布教では「唯一の師たる宗祖親鸞」として語られるところを、「私たちのたくさんの祖先の中に、親鸞という一人の優れた先人がいます」と語ることになるからだ。

面白いなと思うのは、日本語で「僧侶」と名乗るのは変わらないのに、「日本語の”僧侶”は、英語にすると、Ancestoristと翻訳される、そういう個性を持った僧侶なんだ」ということが意識されるようになるので、結果的に、日本語での「僧侶」のニュアンスも微妙に変化し始めることだ。

「僧侶 / Ancestorist」

僧侶という存在の今日的な再定義に、つながっていくのかも知れない。

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