椅子取りゲームが苦手だった
産業僧としてたくさんの方と対話をしながら感じること。
僕らは(たぶん、特に日本社会では)子供の頃から、部活であれ受験であれ、与えられたゲームをプレイする集団の枠組みの中で、良い評価を得て褒められることをエサに、手懐けられて育っている部分が多かれ少なかれある。より高い評価を得ることで、他より自分が優れていること、少なくとも最下位ではないことが確認できることによって、小さな居場所を確保し、安堵を得ようとするメンタリティが、育っていく。
そういえば幼稚園の時、なぜあんなに熱心に椅子取りゲームをやらされたのだろう。先生方にはなんの悪意もないと思うけど(同じくらい、思慮もないのかもしれないけど)、今思い出しても、あれは本当に嫌なゲームとして自分の中には記憶されている。たいていすぐに、自分だけ座る椅子がなくなってしまうのだけど、その時の疎外感や劣等感も嫌だったし、珍しく長く生き残った時にも、椅子を失う不安感や、生き残るために人を突き飛ばさなければならない罪悪感、こんな嫌なゲームを強制的に押し付けてくる支配的構図にも怒りを感じていたと思う。
この、椅子取りゲームに象徴される「居場所を確保するゲーム」を内面化して苦しんでいる人たちが、世の中に実は多いのではないかと、産業僧としてたくさんの方と対話をしながら感じるところだ。
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以前、『こころを磨くSOJIの習慣』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)にて、藤田一照さんのお話を伺った時に、ファイナイトゲームとインフィニットゲームのことが話題となった。
そう。修行はインフィニットゲームだ。そして、人生は修行であり、修行は人生である、ということを考えると、人生もインフィニットゲームだ。
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椅子取りゲームは、ある意味で、僕らにfinite gameの原型を植え付けるものとして作用しているようにも思う。与えられたゲームの枠組みがあり、その試合に否応なく巻き込まれ駆り出され、勝敗がつけられる。試合を放棄した者は「落ちこぼれ」の烙印を押される(ように思える)。
自分はあまりスポーツが好きではない、と思ってきた。でも、山登りをするようになって、気づいたのは、僕はスポーツが苦手なのではなくて、finite gameが苦手だっただけなのだ。決まったルールの中で戦略を立てて試合で点数を取り合うのは、やっている最中はそれなりに集中するとしても、引いた視点から見ると、何かに操られているような感じがして、どこか嫌な感覚が付きまとうのだと思う。ふつうの山登りには、それがない。それがinfinite gameだからだと思う。巡礼なんかも、同じだろう。
しかし、infinite gameも、finite game好きの手にかかると、finite仕様に変えられてしまうことがある。例えば、四国遍路の御朱印スタンプラリー化なんかもそうだろう。あるいは、シリーズ化された山の全踏破といったコンプリート競争も、そうかもしれない。
椅子取りゲームに象徴されるfinite gameを全否定するわけではないけれど、それに親しみすぎることによって、人生までもfinite gameであると錯覚する弊害は、確かにあるように思える。「不確実性の時代」と言われるのも、言い換えると、finite gameであるかのように捉えられてきた世界や人生の諸相の本来的なinfinite性が剥き出しになってきただけ、という気もする。
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