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グッド・アンセスター・ダイアローグ「人間は生きものであり、生きものは続いていくもの」中村桂子さん

今、呼吸する生命の背景に広がる38億年の歴史を探り、その物語を誌する「生命誌(=Biohistory)」。この言葉の創出者であり理学博士の中村桂子先生に、翻訳書『グッド・アンセスター』の書評(*)をいただけたことは、本当に有り難く光栄なことだった。本来、意図するまでもなく、当たり前に生命が携えているはずの「長期思考」を、現代社会を生きる僕らはどのように取り戻し、実践していけるのか。生命科学の視点から、科学の力や人間の手では決して掴み取ることのできない、種を超え、時空を超えた連なりを、長年にわたり研究されてきた中村先生にお話を伺った。

*毎日新聞「今週の本棚」(2021年10月2日掲載)

グッド・アンセスター・ダイアローグは、『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』(ローマン・クルツナリック著、松本紹圭訳/あすなろ書房)を巡る対話シリーズ。翻訳した松本紹圭がホストとなり、各界からゲストを迎えてお届けしていきます。

*「グッド・アンセスター」特設サイト:https://www.good-ancestor.com

(構成・執筆 小関優



人間は生きものである、というあたりまえのこと


松本
:今日はありがとうございます。先生に書評で『グッド・アンセスター』を取り上げていただき嬉しかったです。

まずは、この本に関心を持ってくださったきっかけを教えてくださいますか。


中村
:『グッド・アンセスター』に書かれていることは、私にとってはある意味であたりまえのことでした。私はこの半世紀くらい、人間は生きものであり、自然の一部であると申し上げてきました。もちろん、生きものは多様で、それぞれ蟻は蟻らしく、ライオンはライオンらしく生きている。その中で、人間という生きものとして人間らしく生きるということがあるわけです。ですから、コンピューターを使うことを生きものらしくないと言うつもりはまったくありません。けれどもまずは、生きものであるということ。私たちは機械ではないんだよ、ということです。機械を使いこなすのはいいけれど、人間まで機械であるかのごとく考え始めている今の社会はおかしいのではないか、と。人間は生きものである、ということを再確認しないと、うまく生きられないのではないかと思っています。

たとえば、新型コロナでパンデミックが起きました。異常気象の問題もあります。そしてその原因は、どうやら私たちが温暖化ガスをたくさん出しすぎているからだ、と。そうなると、このままでは未来は怪しいということを、皆さん感じてらっしゃると思うんですね。生きものは、基本的には続いていくものです。続こう続こうとしているものだと思います。その中で、私たち人間ももちろん続こうとしてきた。けれども、人間が特別にやったこと──いろいろな技術を開発したこと──が、続くということを危うくしているとしたら、それはおかしいんじゃないかと。しかも、それは次の世代、次の次の世代がうまく生きられるかどうかという問題であって、そのことについて私たちには責任があります。そうしてつながってきた中で、今私が思うのは、子どもたちの世代、その次の世代に申し訳ない、ということなんです。申し訳ないからきちんとするということが、つまりはグッド・アンセスターになることだと思います。

グッド・アンセスターというのは、昔でいう「ご先祖さま」ではなく、その世代がよい「祖先」として次へつなげていく、という意味ですよね。


松本
:そうですね、バトンを渡していく。


中村
:今、私たちはよい祖先になっているかというと、どうもそうではない。それならどうしたらいいの、という問いがあって。私の直感としては、今もう一度、人間は生きものだということを考え直さなければ、グッド・アンセスターにはなれないと思います。

私はそれを「生命誌」というかたちで考えていますが、38億年ずっと続いてきたものが、人間のために絶えてしまう、なんていうことはないと思うんです。いろいろな生きものを絶滅させてはいますけれど。生きもの全体が、私たち人間のために絶えるなんてことはない。そんなやわなものではないのでね。


松本
:絶えると思うこと自体、傲慢かもしれません。


中村
:けれども、今のままやっていれば、生きもののひとつである人間が滅びる危険は非常に大きい。ですから、他の生きものたちの持つ続く力を私たちも一緒に持たなければならない。そういう意識を持つことについて、松本さんが翻訳された『グッド・アンセスター』と私の気持ちは重なりますし、ああいうかたちで皆さんにメッセージをお出しになることは、とても意味があると思いました。一緒に坂口恭平さんの『土になる』を取り上げさせていただいたのは、グッド・アンセスターのひとつの具体例じゃないかなと。


松本
:概念だけではなく、実践の具体例として。


中村
:そう、実際に日本の中で、しかもとても楽しげにね。ああいうふうに楽しげにやってらっしゃることは、これこそグッド・アンセスターの具体例ですよね。額にしわ寄せて考えるような難しいことじゃなくて。日常的に、自分が生きものだ、という感覚を持ってやっていれば、みんなができることなんじゃありませんかということを、重ねて申し上げるために、二冊を一緒に。


松本
:本来はそんなに難しいことではない、と。


中村
:あたりまえすぎるくらい、あたりまえのことです。だから、もう一度、それを皆さんで確認しませんかということですよね。


専門知をもちながら、生活者として生きる


中村
:私が普段、いわゆる生活者として接している方たちは、そのあたりまえのことに気がついていますし、ほとんどわかっていると感じます。

ところが、専門家。政治家であったり、経営者であったり、学者であったり。そういう肩書きを持った人になると、わかっていない。そこで、私が提案しているのは、誰だって生活者ですよね、ということ。私も、生命誌の研究者、という肩書きは持っていますが、生活者として、毎日お料理などして暮らしているわけです。

東日本大震災のときの原子力発電所も、見事な最先端技術だと思っていたものが、地震や津波で事故を起こしてみたらどうしようもないことがわかった。私は原子力の専門家じゃないですけれど、やっぱり科学の隅っこにいる人間としては、ものすごい責任と言いますか、どうしたらいいんだろうと考えました。

そこで思ったことは、専門家が専門家としてだけでやっていると、大きなエネルギーをどんどん作ろうという発想になるけれど、生活者として考えればそういう危ないことだってあるだろうと気がつくわけで。やはり、いつも人間であることが大事だ、と。

それで、『科学者が人間であること』という本を書きました。実はそのとき、編集者の方が、この題はおかしいので「科学と社会」というような題にしてください、と仰ったんです。でも、私はどうしても、科学者は人間である、という気持ちで書きたいのでと申し上げて、そのままにしていただいた。

人間であるということは、別の言葉をつかえば、やはり生活者であるということですよね。専門になると、なぜかあたりまえのことを忘れてしまいがちになるんです。


松本
:足元のことを。


中村
:そう、生活者になるとあたりまえがあたりまえになるので、専門家としてだけで生きることはやめましょう、と。いつも生活者の気持ちでいること。それがグッド・アンセスターになる具体的な方法じゃないかなと思っています。

専門知もとても大事ですけれど。それと生活者である、ということとは重ねられるはずです。政治や経済の方たちの発言を聞いていると、専門知だけで考えているように見えます。たとえば、ドイツのメルケル首相は、他の政治家と違って、非常に心打たれるお話をなさいますよね。私はあの方は生活者だと思うんです。


松本
:そうですね、スーパーへ買い物に行かれたり。


中村
:そう、それをね、ふっとね、仰る。大事なドイツの政治のことを語りながら、違和感なしに、スーパーのレジの方の気持ちが出てくる。それは、本当にあの方の中で、大きな政治と生活が重なっているからですね。だからみんなが心を打たれるんだと思うんです。ですので、日本の政治家もメルケルさんのようになってほしいのですが、残念ながら、今見えるところにはいらっしゃらないですね。


科学は、新たな知を展開するための素材である


松本
:先生の仰る、機械論的な世界観、生命観、人間観というところですが、どうしても専門家はその立場自体が、何かを客体視して、研究して、深く知るというものであって。よく知るということは、よくコントロールできるということとも近しいことだと思いますし。


中村
:そうですね。科学は17世紀にヨーロッパで始まりましたが、そのときガリレイは「自然は数学であり数式で論理的にわかる」と言いました。ベーコンは「自然は人間が操作できる対象だ」、デカルトは「人間の身体も機械として解析できる」と言った。あの時代に、彼らがそういう発想をしてくれたから、科学が生まれたわけです。科学は、自然を理解するひとつの方法としては、素晴らしいものです。「人間は生きもので、生きものはずっと続いていくものだ」という私の発想の原点には、DNAを勉強したということがあります。数ある知の中でも、ひとつの素晴らしい知だと思います。

ただ、科学は、“科学がわかること”をわからせているのです。人間や自然のことを考えたら、科学でわからないことは山ほどあります。その認識を科学が持ちそびれている。科学ですべてわかる、と専門家だけが思っているならいいですが、私が心配なのは、社会の人までがそう思っているということです。

先日、ある方と心や魂のお話をしたら、「僕がもし魂なんて言ったら、人から非科学的だと思われてしまう。だからそんなことは言えません」と仰るわけ。それは違うと思うのね。科学でわからないことは言っちゃいけないなんて、そんなことはない。科学でわかるところは大事だし、それを知ることもおもしろいけれど。科学でわからないことを語ってはいけないって、そんなことはないでしょう、って私は思う。


松本
:非科学というより、未科学というか。


中村
:未科学というとこれからわかりそうに思えますが、科学の対象ではないことがあるのですね。科学一辺倒の方は、非科学と否定してしまうけれど、科学の外の世界があります。私たちの知を高めて、そこまでわかるような知を作り上げていかなければいけません。それはこれからですね。

私がこういう仕事をしてきてよかったなと思うのは、新しいところへ展開するために考える素材として、生きものの科学くらい素晴らしい素材を持っている分野はない、と思えることです。我田引水ですけれど、実感として。生きものの科学で明らかにしてきたこと、または、これはわからないぞ、ということを感じてきたこと。今までわからなかったことを考えていく、そういう新しい知がこれから必要です。そのための素材としては、生きものは第一級品だと思っているんです。ところが、これですべてがわかると思ってしまうと間違いで。これは素材なんです。ここから見えてくるもので世界を見ると、いろいろおもしろいものが見えてくる。


松本
:広がりのある、ゲートとして。


中村
:そうです。だから、そういうものとして考えませんか、って申し上げるんだけど、多くの方はこれで全部説明しちゃおう、とお思いになる。これで説明はできないんです。考える素材なんですよね。


科学を素材にして、「みんなで考えましょうよ」


中村
:古代以来の、科学を知らない方たちが、こういう世界について何もわかっていなかったかといったら、そんなことはなくて。逆に、もしかしたら全体についての知は深いものを持っていたかもしれません。古代から続く神話だとか、それぞれの宗教の教えだとか、子どもの頃に読んだ物語や説話だとか。そういうものを読むとね、私が一生懸命DNAを研究した結果やっとわかってきたことが、もうすでにわかっていらっしゃるじゃない、と思うわけです。具体的に言えば、生きものはすべて祖先ひとつの仲間なんです。どんなものも全部仲間です。これはお釈迦さまも仰っているわけです。感じていらっしゃるわけでしょう。


松本
:DNAの話は出てこないけれど。


中村
:私がこれだけDNAを勉強してようやくわかったことを、感覚的というか直観的というか、すごい頭脳のはたらきで、わかっていらしたんだと思うんです。でも、昔はそういう優れた方しかわからなかったことが、今は科学を素材にしたら誰にでもわかる。


松本
:お釈迦さまじゃないからできません、ではなくて。


中村
:そう。素材があるんですから、誰でも考えることができる。私たちがわかることと、昔の方たちがわかっていたこととは重なると思うんですよ。今、幸いなのは、考えられる素材があること。これって素晴らしい。この素材を使わない手はない。ところが皆さん、あんまりそういうことをしていらっしゃらない。技術に使って便利にしようとは仰るけれど、これを考える素材にしようと思われる方が少ない。なので、私はその役割をしようと思っているんです。こっちで考えましょうよ、って。


松本
:こんなにたくさんの手がかりがあるのだから。


中村
科学を技術に使う以上に大事なのは、みんなで考える素材にすることじゃないかなと。半世紀以上それを一生懸命語ってきたわけですけれど、今、コロナやいろいろなことが起きている中で、自分の生きかたにこういう考え方を取り入れなきゃいけない、と思う方が急速に増えてきたように感じます。今までは、便利になればいいやと、それだけで暮らしてきた方が、何か考えなきゃいけないと思い始めている。そして、その手がかりがどこにあるかと言ったら、「生きもの」のところにありそうだぞ、と。


松本
:これまでは、生活が便利になればと機械やテクノロジーを使ってきたけれども。


中村
:それが幸せだと思い込んでいらした方たちが。


松本
:目が覚めつつある。


中村
:どうもおかしいぞと思い始めてるんじゃないかなと、ここのところ強く感じますね。


松本
:私もそれは感じます。その方向転換のきっかけは何なのかなっていうところに関心があります。


中村
:本当にね、生活者、普通の方たちはものすごく変わってきていると思うんです。だけど、政治や経済を動かしている方たちがそうなってきたかというと、そうじゃない。ここにものすごいギャップを感じます。


人間はリソースではなく、関わり合いの中に生きる生命


松本
:最近、産業僧という取り組みを始めまして、企業の従業員の方と1on1ミーティングをしたり、関わりの中で見えてくる組織上の問題を分析して提案したりするのですが、やはりみんな関わり合いの中にいる、ということなんです。それこそ機械ではなく、生命なので。ヒューマン・リソースではない。リソースではないんですよね、本当に。


中村
:私もその言葉がきらいです。人材という言葉。


松本
:人材じゃない、と。


中村
:人間でしょう、と。


松本
:そう、人間でしょう、というふうに見ていくと、いろいろな問題が見えてきて。そこから提案をするんですけれど。専門家の方は、専門から見て世界がコントロール可能である、という世界観が大切で、しがみついていたりもして。

たとえば、会社を経営するとき、すべてを機械論的に見てコントロールしようとすると、マーケットのニーズに応じて、今はこういう製品が必要だからこの人をこっちに持っていこう、と人間を機械のパーツのように扱ってしまう。でもそれがもう限界に来ていて。ヒューマン・リソースとして扱われる現場の人たちは、心身を壊してしまうわけです。生命、人間として扱われないことによる問題が、表面化してきているのだと思います。その結果、機械論的世界観という旧世界観で見ている人たちと、それではもう無理だよねと思っている人たちとの、せめぎ合いというか。そういうものが今すごく強くなっている感じがします。


中村
:私もそれを感じますし、そのせめぎ合いが、ちゃんと人間のほうに向いてくれるといいなと思います。ただ、やっぱりね、今、お金なんですよね。やりたいことをやろう、と思ったときには、お金が必要で。どこからお金が出てくるかというと、やっぱりその機械論的なもので動いているところからお金がおりてくる。そうすると、そこに合わせてしまう。

でも、私の若い頃は違いました。たとえば、コロナのパンデミックで言えば、医学から考えて必要なことはワクチンを開発することですよね。科学技術を持つ人間としては、ワクチンで対応することになる。そうなったとき、何をすべきかと言ったら、世界中の学者が協力してワクチン開発をして、世界中の人に配ることです。私が若い頃の学問の雰囲気だったら、おそらくそうしたと思いますし、できたと思います。けれども、今や競争です。国同士も競争、個人同士も競争、組織同士も競争。しかもそれは、誰が儲けるか、という競争。そうなると、そこに協力は見えてこない。でも本来、学問には国境などないし、お金のためにあるものでもないというのは、原理原則ですよね。もちろん、みんな霞を食べて生きているわけじゃありませんから、いろいろな意味でお金が動くのは当然ですけれど。


松本
:それこそ生活者としての部分がありますからね。


中村
:でも今や、お金が先、競争が先。何かをした上で、競争が生まれたり、お金が生まれるのではなくて。科学のありようとして、このコロナにおいては、学者で協力してみんなで立ち向かう姿はまったく見えていないな、と。


松本
:私も仏教、宗教という中にいて、反省や矛盾を感じます。フリーランス僧侶として、新しい仏教のフィールドを作ってきた中で、仏法とは別に世間の法を知りたいと思い、MBAを取り、お坊さんがマネジメントについて仲間と学ぶを作りました。ただ、今必要なのは、世間の法を仏教界に活かすベクトルではなく、仏法を世間へ持ちこむことだと感じています。たとえば、仏教で言う、諸行無常、縁起、空、という考えかた。


中村
生きものは、縁起でできていますよね


松本
すべての生命は、関わり合いの中で立ちあらわれてくるものであり、切り離されて独立したものなんてどこにもない。そういう視点から見ると、私がMBAで学んだことはすごく機械論的なんです。でも、本当は違うんじゃないかな、と。そのやり方ではうまくいかないことが明らかになった以上、今度はいかにして関わり合いの中であったり、コントロール思考ではなく偶有性であったり、そういった見方の転換の中でどう生きていくかを考え、世界の仕組み自体を見直していく必要があるんじゃないか、と。


中村
人間には、下からどんどん湧き出してくる豊かなものがあるはずですよね。それを大事にしなければ生きている意味がないと思うんですよ。


松本
:仏教はそれを伝えているはずなんですけれども。お坊さんですら、仏法は仏法としてあるけれど、世間は世間でこう動いてるから、という諦めがあると思うんです。でも、そうじゃない、と。もうこちらが壊れてきた以上、元々見方がおかしいんだよ、ということをちゃんと言っていかないといけない。


人間の関係によって補われていたものが失われた社会


中村
:私はやっぱりここで、人間、というものを考えるべきだと思うんです。すべて人間で考えないといけないんじゃないかな、と。

たとえば、宗教者や教育者やお医者さまは「聖職」とされて、社会の中では特別な方でした。赤ひげ先生は、貧しい人には「お金はなくていいよ」と言ってやったし、お坊さんや寺子屋の先生もそうだったろうと思います。貧しくても、一生懸命勉強したい子にはちゃんと教えてあげる。月謝を均等に取るなんていうことはなかったと思うんです。宗教もね、お布施で。志ですよね。自分ができる範囲で、本当にありがとうございます、という気持ちで出すわけでしょう。金額を出してるんじゃないですよね。


松本
:値段がついているわけじゃない。


中村
:志を出しているわけです。私たちの社会を人間として支えていた三つの聖職は、みんな人間が相手です。人間の関係なんです。けれど、これらが職業になってしまった。教育者は子ども、お医者さまは病人、という弱い人が相手ですよね。そういう人たちに対して、お金じゃないよ、ということをやってきたシステムが、少なくとも私の知っている日本の社会にはありました。それが今はすべてお金になり、対価になり、競争に勝てばいいんだ、となってしまった。競争に勝つということは何かと言ったら、お金をたくさん得ることだ、という。人間というものが、どんどん否定される世の中になっていると思うんです。


松本
:私はインドでMBAを取りましたが、インドですからいろいろな人がいて、這い上がってきた人もいました。そうして最初は、「地元に帰って、一緒に育った仲間を雇用できるような会社を作るんだ」と志していた人が、卒業の頃になると、「学費を返すためにお金が要るから金融やコンサルに行く」と言い始める。そういうのを見ていて──ある方がMBAはビジネスマンの士官学校だと言っていましたが──士官学校と言えば聞こえはいいですけれど、本来世界を変える力のあった人が、世界の今の枠組みにはまってしまう、そういう場所だなと思ったんです。


中村
:そうやってお金を得た方は、本当に幸せなのかなと。疑問です、本当に。そして、そういう社会が納得できないのは、格差を作ったことです。

本当の意味の幸せからはどんどん遠のいていますよね。日本の中に、ごはんを普通に食べられない子どもがいるっていう。私は小学校4年生の時に、太平洋戦争が終わりましたので、全員がごはんを食べられないときを知っているわけです。お米粒は全部兵隊さんにって。兵隊さんが守ってくれるんだから、あなたたちは我慢しなさいと言われて、お芋を食べさせられてた世代ですので。食べられない貧しさはありましたが、みんなが貧しかったですから。子どもですし、ニコニコしながらそれなりに。毎日毎日これはつらいなあ、なんて思っていたわけじゃなくて。遊ぶのに一生懸命でした。

けれども、今考えてみれば、ものすごく貧しかった。そうして戦争が終わったら、アメリカから映画が入ってきて。一番印象的だったのは、電気冷蔵庫です。映画で、冷蔵庫をぱっと開けると、その中に食べ物がたくさん入ってて、みんなで食べるシーンがあって。こんな魔法の箱みたいなものがあるなんてすごい国だなあと思うと、それが子どもにとっては憧れになるでしょう。ですから、ああいう社会にしたいなと思うのは当然で、それで一生懸命頑張ったわけです。それで、ある種の豊かさは手に入った。でも、こういうかたちにするつもりではなかったと思うのです。ある程度の豊かさで、みんなが適当に食べられる社会を求めていたのに、どこからか間違ってしまった。みんなが食べられないなら、ここから頑張ろうとなるけれど。今のような社会で食べられない子どもがいるのは、社会としておかしいとしか言いようがない。


DNAはすべての生きものをつなぐものであり、続いていくもの


松本
:私は『グッド・アンセスター』で、アンセスターという言葉を「先祖」ではなく、「祖先」と訳しました。それはなぜかというと──これもお寺の反省なのですが──お寺では、「ご先祖さまを大事にしましょう」と言ってきました。現代でご先祖さまって何かというと、私で言えば、松本家、イエです。生命誌的な大きなDNAじゃなく、直接的なDNAのつながりです。両親がいて祖父母がいて。逆方向にいくと、子がいて孫がいて。そのつながりを大切にするのも生命の基本かもしれませんが、今の社会を見ると、結婚しない方も、子どもを持たない方もたくさんいらっしゃる。その中で、直接的な血筋だけでアンセスターを語ってしまうと、ミスリーディングなんじゃないかなと思ったんです。

先生は、生命は続いていくものであり、続いていくことを指向するものだと仰います。よく、人間はDNAを残したいと思うものだ、という文脈でDNAが持ち出されたりしますが、先生が「続いていくことを指向する」と仰るのは、親子に限定した話ではないのですよね。


中村
:DNAは続いていくようにできているんです。二つにわかれて続いていくようにできているので、放っておいても続いていく。それが生命を支えているから、生きものは続いていくわけです。ですから、DNAで続いていることは明らかですけれど、松本家のDNAがあるかと言ったら、それはありません。全部共通です。

たとえば、食事をしたら、分解してエネルギーに変わりますよね。どの生きものも、バクテリアだって同じことをやっています。動くためにはエネルギーが必要で、取り入れたものを分解してエネルギーに変えるというメカニズムがある。それを支えるためのDNAは、みんな共通です。これぞ人間のDNAというものはありません。ましてや、松本家のDNAもない。DNAは広がりです。共通です。ですから、本当に続いていく

いつだったか、自分には子どもがなくて、本当にこんなことでいいんだろうかと悩んでる女性がいらして。そこで、あなたの持ってらっしゃるDNAは、そこにいるスズメさんともつながっていて、このスズメさんが元気にしていれば、あなたのDNAはつながっていると言えるのですと。自分の子どもがいないからDNAがつながらないということはありません。生きものたちがいれば、そこで私のDNAとつながっているのであって。私のDNAも、人間のDNAも、何々家のDNAもないんです。

DNAという言葉は、広がりの中でしか使えない。みんな同じ。その中で、これとこれを組み合わせるとワンちゃんになる、これとこれを組み合わせると人間になる、という組み合わせがちょっとずつ違うだけで。部品はみんな同じです。それが生きものの世界を作っている。そこがDNAのおもしろいところです。こんなものってないでしょう。みんなをつないでる。お釈迦さまならDNAを知らなくても、すべてはつながっているということをおわかりになるけれど。私もDNAのおかげで、お釈迦さまと同じぐらいの感覚を持てていると思うのです。


松本
:お釈迦さまはそれを手がかりなしで見えた、というところがすごい。でも、今なら手がかりをもとにすれば誰もが見える、と。


中村
:そう、全員が見える。そういうことを見つけた科学はいいなと私は思う。


「生きもの感覚」に開かれるひろがりの世界で、今を紡ぐ


松本
:そういう視点で見ると、生命というのは続いていくものであるということ、そして、良き祖先にならんと願うことは、特別なことではなくあたりまえのこと、ということですよね。血縁でつなげていこうという話ではない。


中村
:蟻さんもみんなそうだよねと。みんな元気にいこうねっていう感じです。もちろん、宗教や哲学を通してそういう感覚を得ることもできると思います。でも、それはなかなか難しい。一方、DNAを知ったら「おう蟻さん」って。みんな同じという感覚がもてます。


松本
:蟻さんが隣人として。


中村
:本当に。家の台所によく蟻さんも来るんですが。君、君、今日はどうかね、みたいな感じになりますから。共通という感覚が染み付いていますね。それをDNAに接していない方たちにも、同じように考えてくださいませんか、と伝えたいんです。難しい科学を理解してくださいとか、そういうふうには思わない。


松本
:DNAによってみんな隣人であることを知識として知るというよりは…


中村
:感覚ですね。


松本
:体感としてそれを身につけるということですね。


中村
:私はそれを「生きもの感覚」と言っています。


松本
:「生きもの感覚」というのは、開いていくことなんでしょうか。


中村
:そう。それはですから生きものの世界に開きますよね。生きものは地球上にいますから、地球につながりますよね。さらに地球は宇宙の中にありますから、宇宙につながりますよね。蟻から宇宙の果てまで、おのずと広がっていきます。これはもう、100%広がりの世界ですね。


松本
:そしてその世界は、コントロール可能な管理された世界ではなく、予測不能な世界。


中村
:ですから、未来はどうなりますかって、それはわかりませんとしか言えない。むしろ、続いていくことが基本なんですから、一時一時を大事に紡いでいけばいい。生きることは、ときを紡ぐことだと思うんですね。私たちができることは、ときを紡ぐことで。紡ぐのをやめれば、止まってしまうけれども。みんなで一生懸命ときを紡いでいけば、続いていくじゃありませんか。この先どうなるかではなくて、今を大事に紡いでいく。それが生きることだと思っています。


松本
:その場合、良き祖先になるということは、未来を予想してそこに向かって進んでいくということではないわけですよね。


中村
:そういうことではなくて。みんなが今を一生懸命紡いでいる。思いきり一人ひとりがときを紡げるような社会が、いい社会だと私は思っています。そういうことができる社会を用意するのが、政治や経済の方のお役目だと思うんです。そういう感覚もなく、どこかの国に勝とうとか、力を持とうとか、そういうことは何の意味もないように私には思えます。


松本
:本当ですね。


中村
:一人ひとりが思いきり生きられる社会があったら楽しいじゃないですか。皆さんがそうやってね、いきいきと生きている状況をイメージしたら、とても楽しい。


人間は、弱さを協力というかたちで活かしてきた生きもの


松本
:MBA的な発想でいくと、人間社会は競争によって発展してきて、それは生命に刻み込まれた宿命なんだ、という議論もありうると思うんです。弱肉強食的な発想ともつながるかもしれません。でも、一人ひとりがポテンシャルを発揮して豊かに生きるということは、決してそういうことではないわけですよね。


中村
:そうですね。もうひとつ、生きものの世界って何と聞かれたら、矛盾の塊だと答えます。機械の世界は矛盾があったらいけないわけですね。矛盾を排して、論理で説明できるものでないと。でも、生きものの世界は、矛盾の塊だと思うんですよ

子どもたちに、命は大事、と言いますよね。むやみに殺しちゃいけない、と言いながら、一緒にハンバーグを食べるわけでしょう。このハンバーグはこの間まで生きていた生きものだよね、と。矛盾ですよね。でもそこで、ハンバーグを食べるときは本当にありがとう、いただきます、と言って食べるんだよと伝える。食べないわけにいかないものね、というふうに、子どもたちと話をするしかありません。割り切って、殺しちゃいけないんだからいけませんとは言えないわけです。

私は、それこそが生きることであり、考えることだと思うのです。全部わかって割り切れるなら、考える必要なんかありませんよね。だけど、殺しちゃいけないと言いながら、毎日殺しているところに自分がいる。それをどう説明するのか。そういうかたちで、生きるということを考えようと思うのです。他の生きものたちだって、お互い食べ合っている。共生の世界は、食べ合い殺し合いの上に成り立っていて、そこに人間もいるわけです。

私、人間を生きものとして考えるときに、好きな考え方があって。人間は、二足歩行した結果、脳が大きくなって、考える生きものになったわけですね。そこで、なぜ二足歩行したの、という問いが浮かぶ。昔のことですから憶測です。事実を見ながら状況から考えるしかないわけですけれど。

まず、霊長類の仲間がアフリカの森にいました。果物が豊富で、食べ物が充分にある中で。けれど、人間が二足歩行した頃の地球は、気候が悪くなった時代なんですよ。そうなると、森が衰えて食べ物が不足するような事態が推測されます。けれど、人間は犬歯が小さいので、他の仲間たちと比べると弱い。噛みついて戦えない。それで食べものの競争に負けて、遠くまで食べものを採りに行かなければならなくなった。そのとき、自分が食べるだけでなく、それを家族に持って帰ろうとしたんですね。


松本
:分ける。


中村
:四本足で歩いていては持って行けないので。二足歩行で持って行ったわけです。


松本
:両手を合わせて器にするために。


中村
:そこから二足歩行が始まった、という説があるんです。


松本
:なるほど確かに。四つん這いで歩いていたら、物を運べないですからね。


中村
:人間が運ぶということはとても大事なことで。なぜ運ばなければいけなかったのかというと、弱かったからだと。そのあと人間はアフリカから外へ出て、世界中に広まって、こういう世界を作るわけです。これは弱かったからなんです。弱かったからこそ、新しいことにチャレンジした、と。強ければそこで暮らしていけるわけで、工夫しないでも済む。でも弱かったからこそ、人間は工夫する存在になった。弱かったから立ち上がった、というこの説が私は好きなんです。正しいかどうかは別として。


松本
:素敵ですね。


中村
:サバンナに出て狩猟もできるようになっていきますけれど、その世界の人間は、明らかに平等なんですよ。今、日本でも、マタギみたいなかたちで狩猟があります。その社会には、鉄砲を撃つ人や周りで追いかける人などの役割分担がありますが、平等に分けるんです。マタギの方に、どなたかが問うた記録を見ると、平等に分けなかったらこの社会は続かない、と。永遠に自分が一番強いわけではなく衰えるのだから、その役割分担の中で平等にやっていかないと、この社会はつながらない、と。

だから、もともとは平等社会だったんです。人間は、ある意味では、弱いということを協力するというかたちで活かしてきた生きものだということが、明らかになっていますのでね。競争社会が原理原則だというのは、ちょっと違うんじゃないかな。


松本
:原点はそうじゃなかったと。食べものを分け与える相手も、血のつながった家族だけではなかった。


中村
:もちろん原点は、家族です。でも狩猟で大きな獲物を獲るようになると、ひとつの家族だけでは追えませんから、いくつかの家族が集まって集団になります。そうして、その集団で平等に分けます。でもその集団は、あんまり大きいと駄目です。私は、今の社会は集団を大きくしすぎたんだと思います。大きくなることが勝つことだ、と皆さん思ってらっしゃるけれど。大きくすることは、暮らしにくくすることだ、と私は思っています。本当に自分たちがやりたいことを、上手にやれる大きさで動いていくのがいいのでね。会社だって、そうだと思いますよ。今までは大きくなることが勝ちでしたけれど。適度な大きさというものがあって、それは、協力できる大きさだと思います。


生きものとしての力を失わずに生きられる社会へ


中村
:人間は立ち上がったために頭脳が大きくなって、いろいろ考えられるようになりました。その能力をこれまでは機械論、大型化の方向へ使ってきましたけれど、もう一度原点に戻ったら、違う方向の社会を作ることだってできる、と私は思っていて。今、一番関心を持っているのはそこです。それが作れないかな、って。今の方向性があたりまえだと思わないようにしませんか、ということです。生きものの研究が進めば進むほど、人間の始まりのところが見えてきましたので。その原点を大事にするのなら、これはやっぱり違う、という答えが出るのではありませんか、と申し上げたいのです。


松本
:本当ですね。お釈迦さまの時代には見えなかったことも、今は見える手がかりがあるのだから、その恩恵を受けない手はない、と。今こそ、そういったビジョンで、本当にこの世界はこれでいいんだろうかというところを、素朴に、生活者のところから問い直していきたいと思いました。


中村
:私たちが昔の人より進んでいるのではなく、トータルとしては同じだと思っているんです。こちらができるとこちらが欠ける、というように。20万年前に生まれたホモサピエンスが、森の中やサバンナで活躍していたとき、どれだけ頭をはたらかせていたかと思うと、私たちより使っていたかもしれないでしょう。私たちが森の中に行ったら、あっという間に食べられちゃうかもしれません。そういう生きもの的な能力を、ある意味で失っているわけですよね。そうして失ったものは、ものすごい大きなものかもしれないと思うのです。ですから、コンピューターを上手に使いこなすことも大事だけれど、あんまりこれに振り回されると、人間の能力は危ないんじゃないかと、そこが気になります。人間の能力が失われないような生きかたの中で、デジタルも使っていかないと、決して幸せな社会にはならないと思うのです。人間誰もが幸せじゃなかったら意味ないですものね。


松本
:そうですね。


中村
:一人ひとりがね。


松本
:ありがとうございます。グッド・アンセスターというテーマを、違う角度から考えるいい機会になりました。


中村
:こちらこそ。



中村桂子
1936年東京生れ。生命誌研究者。東京大学理学部化学科卒。同大学院生物化学博士課程修了。理学博士。「人間は生きものであり、自然の一部」という事実を基本に生命論的世界観を持つ知として「生命誌」を構想。1993年「JT生命誌研究館」を創設し副館長。2002年に館長、2020年名誉館長。著書に「科学者が人間であること」(岩波新書)、「ふつうのおんなの子のちから」(集英社クリエイティブ)、「老いを愛づる」(中公新書ラクレ)など。

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