What is this?
師弟関係にあった法然と親鸞は、共に人生を通して仏教者であった二人だが、法然は衣(法衣)を着たまま浄土教の念仏道を説く道を歩み、親鸞は衣を着たり脱いだり「非僧非俗」の身として世俗を生きる道を歩んだ。
スティーブン・バチェラー氏はフランス在住の仏教者で、「セキュラー・ブディズム(世俗的仏教)」を提唱する先生でもある。僧侶として仏教修行を重ねた後、現在は「僧侶」の立場を降りて、特定の信仰や所属を超えた仏教を世界の人々に伝えている。自らのあり方を通してセキュラー・ブディズムを示すスティーブンは、いわば「衣を脱いだ」人であり、親鸞の歩みに連なる仏教者の一人と言えるだろう。
先日、武蔵野大学の100周年記念プロジェクトの企画で来日されたのを機に、各地を共にしながら彼の仏道に触れる機会をいただいた。
様々な国と宗派の修行を経たスティーブンさんが今も大切にしているプラクティスが、韓国の禅寺で研鑽した「公案禅」だという。公案禅は、提示された問いをめぐって師匠と修行僧が問答を繰り返し、問答による瞑想を通して悟りに近づく仏道だ。日本仏教では臨済宗で禅問答として行われるが、数々の「公案集」が存在するほど、問いは数多に用意されている。「両手を叩くと音がする。では、片手であったらどうか」といった具合だ。しかし、スティーブンさんから教えてもらった韓国由来の公案禅は、たった一つのシンプルな問いを繰り返す。
「What is this?」
見るもの、感じるもの、頭に浮かぶもの、すべてを「What is this?」の問いに投げ込んでいくのだ。「これはなんだ」「"これ" とはなんだ」「それでは "それ" はなんだ」と問答を繰り返すうち、答えなきところへ向かう。指差す先を突き止めようとするほどに、突き止めようがないことに気づかされる。
そんな終わりなき公案禅は、自分にとっての念仏道に通じている。南無阿弥陀仏の念仏は、自分自身と阿弥陀仏双方からの「What is this?」の問いかけ(コーリング)としてはたらいている感覚もある。
分別ある世界を生きる上では、かりそめの答えや結論を出すことも必要だろう。しかし同時に、親鸞が自らの悪人性を問い続け南無阿弥陀仏を重ねたように、ゴールなき問いを重ねることにも仏道はある。どんなに結論を出したところで結論には至らない、終わりなき途に、未来がある。
「What is this?」の問いかけは、衣を脱いでも纏っても、どこにあっても機能する。時代を問わず、誰もに開かれている、まさにセキュラー(世俗的)で普遍的なアプローチだ。
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