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平常心是道

新型コロナウイルスに関して、ビル・ゲイツ氏から「ビューティフルなオープンレター」が届いた。

「多くの人々が 新型コロナウイルス (Covid-19)を大災害だと捉えていますが、私は *大修正* の良い機会だと思っています」

素晴らしいメッセージだ。

こんな時こそ、平常心を大切に。

ところで、「平常心(へいじょうしん)」は禅語では「平常心(びょうじょうしん)」と読み、深い意味があるという。

ふつう、平常心(へいじょうしん)というと、「何が起こっても落ち着いてブレない心」のようなものを想像すると思う。でも、禅における平常心(びょうじょうしん)は、それとはずいぶん違う意味で使われている。

鎌倉円覚寺の横田南嶺老師のブログに詳しく書かれているので、ぜひ読んでみてください。

横田老師曰く、
「造作無く是非無く.取捨無く断常無く、凡聖無し」であり、
「作り事をしない」ことであり、
「なんの造作もしないありのままの心」だ。
そして
「それがそのまま道であり、仏でもあります」
と。

先日、noteに書いた精神科医の友人との対話が、この平常心(びょうじょうしん)に重なる。

精神科医の友人に久しぶりに再会した。大病院の副院長として病院改革にも力を入れている、とてもリーダーシップのある人だ。近況を聞くと、近年はDPATの任務に参加していたそうで、省庁や自衛隊とチームを組んで最前線で危機的状況に対処してきた彼の生々しい報告を聞かせてもらった。

医師でありながらスピリチュアリティにも理解の深い彼の視点は、本当に示唆に富んでいた。彼が語ってくれたことで印象的なことはたくさんあるけど、特に印象的なのは「ご支援ありがとうございます」という言葉に救われたという体験。過去に参加した災害支援活動で、過酷な状況の中で支援を必要としている人を診察に回っている時に、まさにその支援を必要としている当事者から労いの言葉をもらうことがあったという。大変なはずのその人から、支援に来た自分に「お忙しいのに、ご支援に来てくださって、ありがとうございます」と労いの言葉をもらうとき、僕の友人は過酷な状況の中で落ち着きと自信を取り戻すのだという。

彼曰く、「危機の中で仕事をしていると、人はどんどん正気を失っていく。そんな中で、どうやって正気を取り戻すか? 人は自分が正気ではないということに気づくことができると、正気に戻ることができる。そのきっかけとなるのが、正気な人の存在に触れること。刻々とギリギリの決断を迫られ続ける危機現場のリーダーは、根元的なエネルギーとの繋がりを失って、心がどんどんやせ細っていく。そんな時、正気な人、つまり、自分の心の中に神性を保つ人、根元的なエネルギーとつながっているbeing、に触れることで、自分を見つめる物差しをもつことができる」のだそうだ。

非常事態にこそ、それに飲み込まれることなくbeingを保つ人の存在が、リーダーにとってもチームにとっても重要。そして、その彼が言うには、「今後、慢性的に非常事態が続くであろう世界において、僧侶のようなbeingを保つ存在を身近に持つことが、とても重要になるだろう」とのこと。

僕たちが今直面しているポスト宗教時代は、非常事態が慢性化する時代でもある。
近い将来、待ち受ける「地球規模、人類規模の巨大リスク」は枚挙にいとまがない。
度重なる“Wake up call”に、強制的に目覚めさせられる人が増えるだろう。何に目覚めるかといえば、自分が必ず死にゆく存在であるということに。人類の平均寿命が延び、医療技術の進歩によって、あたかも死など永遠に来ないかのような錯覚の中でまどろむ世界に、“Wake up call”が容赦なく響き渡るのが、僕たちが生きる現代だ。

危機というのは、つまり、自分が死すべき存在であることが意識されるきっかけになる。日頃は情報の渦に飲み込まれて、頭でっかちで生きてきた現代人も、このような時、自分が情報ではなく生身の人間であり、死すべき存在であることを知る。頭だけじゃなく、身体で生きていることに気づく。その点、日常的に死に触れている人は、beingを保つリーダーシップを発揮するのにアドバンテージがあるということ。医師も宗教家も、そこに共通点があるのかもしれない。

ウェルビーイングに関して、平成10年のWHO執行理事会(総会の下部機関)において検討された幻の「健康」の定義はこうだった。

「完全な肉体的(physical)、精神的(mental)、Spiritual及び社会的(social)福祉のDynamicな状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」
"Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."

肉体的、精神的、スピリチュアル的、そして社会的に「動的」なウェルビーイングを保つということは、すなわち、常に変化する諸行無常の世界の中で、中道をととのえ続ける終わりのない営みということになると思う。

Post-religion時代の宗教家の仕事は、一つの表現としてはWell-being managerであることは間違いないと思うが、それは「ウェルビーイングを目指す人」ではなくて、ただそのままありのままのbeingとして存在すること、自らがそのあり方によって、プラユキ・ナラテボー師の言う所の「よき縁となし、よき縁となる」ことなのだと思う。

その意味で、Post-religion時代の宗教家に求められる資質は、傍目から見て「トガった人」では必ずしもない。自意識ベースの尖りは、かえってbeingの邪魔になる。自らが、安養(安心+養生)の中に治って、そのあり方(being)がじわじわと周囲に影響を及ぼすような、そんな人だ。中道を行くことは、簡単なようで難しい。

中道を行くことは、地味だ。
見えにくいから、注目されない。
「いいね」もつきにくいし、リツイートもされにくい。
でもきっと、そこを踏ん張ったところに、Post-religion時代の宗教家の役割がはっきりしてくるはず。

コロナショックの中、多くのお寺が対応を模索している。
今まで慣れ親しんだ形を手放さなければならないことも出てくるだろう。
こういう変化の時を、何が本質なのかを見極める良い機会として前向きに捉えたい。
“Wake up call”を受けて、未来の住職塾NEXTも、オンライン化を進めている。

内田樹さんの『人口減社会の未来学』が、コロナ禍をはじめとするリスクに対する日本の悪しき慣習に鋭く切り込んでおり、一読の価値あり。
・日本社会には最悪の事態に備えて「リスクヘッジ」をしておくという習慣がない
・日本人というリスクファクターを勘定に入れておかないと適切なリスク管理はできない

「イデオロギーも、政治的正しさも、悲憤慷慨も、愛国心も、楽観も悲観も、後退戦では用無しです。ステイ・クール。頭を冷やせ。大切なのはそれです。」

この「大修正」の機会、曲がりなりにも僧侶として宗教の領域で生きる自分に、平常心の担い手となれるどうかが問いかけられているように感じる。

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