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「悲しみ」が感性の器を拡張する

「独立研究者」を標榜する数学者、森田真生さんと、2時間くらい、おしゃべりした。

そのまま録音配信すればよかったと思うくらい豊かな対話けれど、録音配信しないからこそできた対話だったようにも思う。イベントの時の森田さんは、トークが恐ろしく早い。せっかくのイベントだからと、参加者にできるだけ多くの情報を伝えようとしているようでいて、すごい集中力で自分の世界に入っているようでもある。今日のおしゃべりは、僕のペースに合わせてくれたのか、穏やかだった。

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森田さんの「独立研究者」という立ち位置について。「何から独立しているんですか?」と尋ねてみたら、「世間です」と回答。僧侶になる出家=出世間と同じだ。でももちろん、森田さんが僧侶になるとか、そんな話ではなく。現実のところ、僧侶の世界も第二の世間のようなものだから、どこかの教団に所属して出家得度したところで、出世間にはならない。だから、中世には第一の世間(世俗)にも第二の世間(仏教界)にも属さない、「ひじり」と呼ばれる人たちが存在したのだ。

世間に寄りすぎると、どうしてもシステムに絡め取られてしまう。それを避けるように、境界線、波打ち際、辺境、間(あわい)、末梢、そんなところを好んで生きる人たちが、どんな時代にも存在した。森田さんはその系譜を継ぐ人だ。今時は「フリーランス」という仕事の仕方も増えているけれど、森田さんが言っている「独立」というのは、働き方だけではない。在り方だ。僕は時々、つかみがいいので「フリーランスの僧侶です」と言うことがあるけれど、やめようと思った。

森田さんの「独立」には、independent(独立)も、dependent(依存)も、inter-dependent(相互関係/縁起)も、すべて含まれているのだと思う。狂った社会の中で、正気を保つには、絶妙な距離が必要だ。

『世界の中にありながら、世界に属さない』の本を、久しぶりに思い出した。

近頃の森田さんは、舩橋真俊さんが進める「協生農法」に関心を寄せている。京都の法然院の森で、試験的に協生農法を実践し始めた。

生来の探求者の眼差しの先には常に、生命がある。数学者として数学で生命の不思議にアプローチしながら、「数学ではわからないこと」の輪郭をなぞり続けている感じがする。だから、いつも謙虚だし、なんでもかんでも数学に還元しようとはしない。むしろ、数学でわからないことを見つけるために、数学をやっているようにも見える。だから、森田さんが「協生農法」に関心を持つのは、とても自然だ。

スケール、都市と生き物の話。

生き物はたくさんの細胞が集まって大きなシステムを動かすことで、一つの生き物として成り立つ。同じように、都市には様々な人が集い巨大なシステムを動かすことで、動いている。都市と生き物は、スケールメリットがあるという点で、似ているそうだ。動物も、体が大きくなると、その分だけエネルギー消費も大きくなるけれど、体重とエネルギー消費の比率には、スケールメリットがある。例えば、象1頭の体重と釣り合うだけのネズミの大群を集めた時、エネルギー消費はネズミの大群の合計の方が大きいということ。同じように、都市も大きくなればなるほど、エネルギー効率の上でのスケールメリットがある。例えば、電気や水道などのインフラは一箇所に集積させることで、人間一人当たりの効率は上がる。

だけど、都市と生き物で似ていないところもある。都市は生き物に比べて長生きだ。長生きする都市は、抹消神経から養分を吸収するということがあるのではないか。都市を成立させるシステムが機能しながら、システムの境界線に漂う人たちが、新しい文化を作り、システムのイノベーションを牽引してきた。結果、都市はなかなか死なない。その点、企業は生き物に近い。システムが肥大化しすると、硬直化して、外の変化に適応できなくなり、ある程度の寿命で死んでしまう。システムを長らえさせるためには、抹消からセンサーフィードバックを得て変化し続けるために周縁部の多様性が必要、という話。

そのあたり、詳しくは『スケール』から。

より豊かな生物多様性を都市に内包させるには、ほんのちょっとした空き地でも「協生農法」で小さな森を作れば、そこを「止まり木」として案外多くの生物が都市でも生きることができるのではないか。おまけに、都市の緑化を進める作業は、それに携わる人にとってのセラピーにもなる、というアイデア。

さて、森田さんは「これからは人間の感性が大事になる」という。森田さんがよく言及するる哲学者、ティモシー・モートンの「新しいエコロジーと文化/芸術」の動画を見てみてほしい。昨年末、東京芸術大学でティモシー・モートンがオンラインで行った特別講義「グローバル時代の芸術文化論〜Geotrauma」だ。

(日本語)

(英語)

ティモシー・モートンを参照しながら、森田さんは「感情には、感性のキャパシティを広げる感情と、そうでない感情がある」という。喜びや悲しみは感性のキャパシティを拡張する感情。一方、怒りやおそれや憎しみは、交流を遮断する感情だと。

この話に、僕は激しく首肯した。

最近、僕はMonk Managerとして企業の社員の人たちとたくさんの対話を重ね、その声に現れる感情を分析した。そのデータを色々な角度から分析している中で、一つ見えてきたことが、対話の前後の状態を比較すると、お坊さん(僕)と対話した人は「悲しみ」感情が有意に増している、ということだ。特に、メンタルのコンディションの悪い人ほど、悲しみが増している割合が高い。

これはどういうことか。「悲しみ」感情を単にネガティブなものとして捉えるならば、この結果から言えることは「お坊さんと対話するのを直ちに止めろ」となるだろう。コンディションをさらに悪化させてどうするんだと。しかし、僕はそう解釈しなかった。僕自身の感触からも、社員の事後アンケート結果からも、明らかに良いフィードバックがあったし、仏教的にいうなら「抜苦」の効果が見られたからだ。

では、この「お坊さんと対話した後、悲しみが増している」という現象をどう捉えるかといえば、僕は「共感する力が高まった」のだと解釈した。悲しい、という感情は、閉じていない。常に、何かへの共感がある。コンディションの良い人は、僧侶との対話を通じて意識が拡張して他者への共感が増したのだと思うし、コンディションのよくない人は、自分自身が本当は感じているのに目を瞑って蓋をしてきた「つらい」という気持ちを開いて自分自身に共感できたのだと思う。

森田さんは、「いろんな感情の中でも、悲しみは、あらゆる感情の器になる」という。深い悲しみは、その人の感情の器を大きくする。器が大きくなれば、その中で、喜びや、怒りや、憎しみや、どんな悲喜交々のドラマが生まれたとしても、それら全てを包み込んでappreciate(味わうこと)ができるだろう。

「幸せ体温計」があったとして、体温計が常に「喜び」を示していれば幸せで、「悲しみ」が混じっていたら不幸、なんていうのはちょっと近視眼的すぎる。幸福とは、なるべく悲しみ成分が減って、喜び成分が多い人生を送ること、なんていうことではないはず。むしろ、森田さんの発想を借りるなら、悲しみこそ、カラフルな感情が豊かに芽吹く土壌を作るのだ。

その意味で、僕は世の中の注目が「幸福」から「ウェルビーイング」に移行したのは、良い変化だと思う。ウェルビーイングには、喜びも悲しみも、あらゆる感情がカラフルに含まれていて良いはず。「悲しみ」の感情を「ネガティブ」と切り捨てるのではなく、自分の心を育ててくれるものと受け止められるようになれば、人生観が変わりそうな気がする。

悲しみの大きさを横軸として、感情の多様性を縦軸においてみた時に、人のウェルビーイングがどう変化するのか。今後のMonk Managerでも分析してみたいところだ。

お経にも「悲」という漢字がたくさん出てくる。特に浄土系の仏門は「悲」に満ちている。阿弥陀仏の悲しみは「大悲」といって、一切衆生に向けられている。この「悲しみ」こそ、人と仏が通じるゲートなのかもしれない。

〈悲〉の原義は〈呻き〉を意味する梵語の「カルナー(karunā)」であるともいわれ[1]、(他者の苦痛をわがこととして)苦しむこと、嘆き悲しむことから、〈同情・あわれみ〉を意味するようになった。慈悲と熟語される慈悲の〈慈〉は、梵語「マイトリー (maitrī)」であり、「ミトラ (mitra)」から造られた語で、本来は〈友情・親しきもの〉の意である。転じて〈慈しみ〉、純粋の〈親愛の念〉を意味する。
大乗仏教においては、他者の苦しみを救いたいと願う「悲」の心を特に重視し「大悲 (マハー・カルナー mahā karunā)」と称する。仏の〈悲〉はとくに、大悲と呼ばれ無縁の大悲(あらゆる差別を離れた絶対平等の慈悲)だとされている。

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