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あらゆる教理から自由になる

先日、藤田一照さんとオンラインで対談する機会があった。一照さんとはもうかれこれ10年以上のお付き合いになるけれど、イベントのような公開の場で対談するのは案外、今回が初めてだ。

「身体系僧侶」の一照さんを囲む会に、僕がゲストで呼ばれた格好。最初に一照さんのリードによる小さな瞑想から始まる。オンラインだから、皆それぞれ自分のいる場所で、一照さんの声のガイドに従って、坐禅的な瞑想をする。この日は「坐る」になり切る、というような瞑想だった。

その後、何の台本もなく、対話が始まる。TMRの修行の成果か、今は何の台本もない対話の方が楽しいし、それこそが対話というものだと思う。

実際、一照さんとの対話の内容も、まさにそのところから始まった。禅も、仏教も、マニュアルや台本のないところにこそ、大事なものがあるんじゃないか、という一照さんからの問題提起。自分も最近、そのあたりのことを感じる機会が多いので、自然と共感。

ちょうど、定期購読している「Quartz」というメルマガの中にも、そういった趣旨の一節があったので、以下に引用紹介。

そういえば、先日、非常に面白いレストランに行きまして、シェフが天才的な腕前なのでとにかく味は見事だったのですが、面白かったのは、そのシェフの方が、契約している農家さんに特に食材の指定はせず、あるものを適当に送ってもらうようにしていると語っておられたことで、箱を開けてからメニューを考えるそうなんですね。

──すごいすね。一種の即興ですね。

はい。その面白さというのは、一種、自分のコントロールを手放しているようなところだと思うんです。つまり、あらゆるディテールをガチガチに制御して、毎日毎日100点のものを100%再現し続けるという方向で「完成」や「精度」を目指すのではなく、環境や条件の変化に合わせて、つど目指すべき達成が新たに生成されるという感じなんだと自分は想像するのですが、そうした制御不能性をどう取り入れながらも、それをいかにしてひとつのパッケージに収めるのか、といったあたりのバランス感覚の面白さは、いまの先進的なミュージシャンの仕事にかなり近いものを感じて、感心してしまいました。自分が最近贔屓にしているムーア・マザーやスメーツやフェイ・ウェブスターやビッグ・シーフといったアーティストがやっていることが料理で表現されているような感じがして、感心どころか、実際かなり興奮してしまいました。

(メールマガジン「Quartz」より)


不確実性の時代、コントロール可能な環境下で100%を目指すことの不可能性が露わになって、今、野性を開花させる方向へと行動や生き方を変えようと試みる人が増えているのを感じる。

自分の場合は、「対話」がそれだ。何が正解かも、目指すべき目標も、成立しているかどうかも、本当のところはわからない。しかし、その不可能性に身を委ねていると、何かが開いてくる感じがする。それが面白くて、対話を続けている。テンプルモーニングラジオの収録は、僕にとっての仏道であり、瞑想の時間だ。

「完全に条件を整えた中で、台本通りにやれば、同じものが再現される」という世界観から離れようとする、野性への回帰。


ブッダの言葉に次のようなものがある。

生まれによって賤しい人となるのではない。
生まれによってバラモンとなるのではない。
行為によって賤しい人ともなり、行為によってはバラモンともなる。
(スッタニパータ)

この言葉もまた、野性を呼び覚ますcallingという感じもする。

同じくQuartzに、関連する印象的なエピソードがあったので、引用したい。MITメディアラボで客員研究員をされていたスガタ・ミトラさんという方の話だ。

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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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