親鸞の「往相」と「還相」をベクトルで読み解く
親鸞の著作には「海」が山ほど出てくる。山ほどの、海。というのも、おかしいけれども。
浄土真宗というくらいだから、この苦しみに満ちた娑婆世界から阿弥陀仏の安養の浄土世界へと往生することを念頭においた宗教なのだけど、「功徳の宝海」とか「弘誓の智海」とか、浄土のことを語るときにも「海」を使う一方で、「生死の苦海」「愛欲の広海」など、娑婆のことを語るときにも「海」を使う。
その親鸞は、主著である『教行信証』の冒頭で、浄土真宗についてこう語る。
「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向あり。一には往相(おうそう)、二には還相(げんそう)なり」
親鸞が冒頭で語るように、この往相・還相という考え方は、浄土真宗を決定的に特徴づけるものでありながら、私はこれまでいまいちよくわからなかった。
いずれ仏の世界に生まれることを願うこの私が、阿弥陀仏の本願力のはたらきによって、「いずれ(死後に)仏の世界である浄土に生まれる」ことが定まった私が、いよいよ命が尽きて仏の世界である浄土に往生したとき、私は直ちに還相の菩薩となって、この迷いの世界に還りきて人々を救済し続けるということは、一体どういうことなのか。
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それが今朝、ようやく、腑に落ちた。
私は今まで、娑婆と浄土をスタティック(静的)に捉えすぎていたのだ。
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