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七仏通戒偈

江戸から明治期、そして現代に至るまでの「修養論」の系譜が面白く、このところ追いかけている。特に、西平直先生の、<修養 cultivation>の視点から、自らの身を修め、心を養うのに役立つものであればなんでも取り入れる雑草のようなその様相に、なんとも惹かれるものがある。おそらく、自分自身の出自と人生の遍歴が、関係しているに違いない。


さて、修養論を辿っていくうちに、一つ、思い出された仏教の言葉がある。

それは、七仏通戒偈と呼ばれるもので、白楽天と道林禅師の仏法問答に由来するものだ。中国で昔、白楽天が仏法の極意を道林禅師に訪ねたところ、「諸悪莫作 衆善奉行 自淨其意 是諸仏教」(悪いことをせず、善いことをしなさい。そして自分の心を浄めなさい。それが仏教です)と答えた。それに対して白楽天が「そんなことは3歳の子どもでも分かることだ」と言ったら、道林禅師が「3歳の子どもでも分かることだが、80歳の老人にも実践することは難しい」と返した、と伝わっている。

この句は七仏通戒偈と呼ばれ、仏教で大切にされてきた。おそらく、それなりの年月の経験を経た僧侶であれば、宗派を問わず、一度は耳にしたことがあるエピソードだと思う。

個人的には、僕はこの話を、浄土真宗の教育の中「でも」教わる機会があったことが、興味深いと思っていた。

「悪いことをせず、善いことをしなさい。そして自分の心を浄めなさい」というメッセージは、おおよそどんな人でも、さほど違和感なく受け入れられるものだと思う。それを、人の道、道徳を説く存在としての僧侶が説くことにも、納得感はそれなりにあると思う。

しかし、浄土真宗には、『歎異抄』という有名な文章があり、そこでは悪を巡る過激な思想が語られている。

「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」
(善人でさえ往生できる。悪人ならなおさらだ)

今はこの「悪人ならなおさら往生できる」という過激な言葉に深入りはしないけれど、少なくとも、上の「悪いことをせず、善いことをしなさい」の七仏通戒偈と、字義的には矛盾する。しかし、そんな浄土真宗においても、この七仏通戒偈は教えられてきた。

もちろん、浄土真宗の中でそれが教えられる時、「80歳の老人にも実践することは難しい」という側面が強調される。そして、「それを本当に実践できる人は、この中にいますか? いないでしょう。だから、自力では無理なんです。阿弥陀如来の他力にお任せする他ない」という、定型のパターンへと展開していくのだ(特にそれが悪いというわけでもなくて)。

僕がいつも自然と興味を持つのは、「仏教に横串を刺すもの」だ。その点、七仏通戒偈は、その教義がもっとも拗れていると思われる浄土真宗をしても、上手にそれを取り込み(取り込まれ)、ちゃんと横串として機能している。

そして、その串は、仏教を貫通して、修養の文脈にまで到達しているように思われる。七仏通戒偈は、日本仏教と修養をつなぐ一本の糸として、機能してきたように思われる。

もう一本の糸として見出されるのは、大乗仏教の菩薩道の発想だ。菩薩というのは、悟りに至る階梯において最高位にある、完成された仏や如来と比べると下位にあり、未完成の存在だ。未完成だからこそ、自ら修行し続けるし、後に続く者たちを助け、迷える人たちにはたらきかけ続ける。

日本仏教はある面、完成された仏・如来よりも、未完成の菩薩を尊重してきたところがある。完成されていないからこそ、完成を目指して努力しようとする気持ちも湧くのだ。

もちろん、目指すべき目標があるからこそ頑張れるという点で、ゴールとしての「完成された仏・如来」は、言うまでもなく大切な存在である。しかしどこかで、それが「永遠に完成されることのない」目標として置かれているような感じもある。

「もう十分に修行をして、いつでも仏になることもできるんだけど、そこをあえて菩薩の地位に踏みとどまる」ことを選ぶ菩薩の姿に、大乗仏教の究極を見ようとする心持ちが、自分の中にもあるような気がする。

修養には、終わりがない。そのあり方は、大乗仏教の菩薩道の発想と通じ、実践としては、たとえば掃除に通じていく。

善悪をめぐり、どこまでも深く内省を重ねた親鸞の姿勢をみるに、彼は、自らの体験を通してこの世を探求し、そこに普遍の解と、新たな問いを見出し続けた人であっただろう。そのように、自身のあり方を研ぎ澄ましながら繰り返し問うていく道は、清沢満之に続く真宗大谷派の伝統にも色濃く受け継がれている。

僕の関心は、そうした浄土真宗の文脈とも接続しうる「修養」の沼の深さにある。

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