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限界芸術としての掃除

大蓮寺の秋田光軌さんが「生命の革新」としての限界芸術について論じた論文が、涙骨賞を受賞していたことを、大変遅ればせながら、最近知った。いかに自分が仏教界の話題から遠ざかっているか、思い知らされた。ともあれ、このタイミングで知ることになったのも何かの縁ということで、ありがたいことに全文公開されている論文を中外日報ウェブサイトで拝読した。

大蓮寺は大阪で有数の有名なパドマ幼稚園を経営しているが、秋田光軌さんは、その幼稚園での子どもたちの遊びの姿を通じて「生命が輝く」瞬間を紹介し、フリードリヒ・フレーベルの思想に基づき、遊びが自己と世界、他者との境界を溶解する「生の合一」体験であると説明する。現代では宗教の役割が薄れ、目的達成の手段としての行為が主流となっているが、限界芸術は生活と一体化し、純粋芸術や大衆芸術を生む源泉として重要であると述べている。

私は「限界芸術」という芸術のジャンルをここで初めて知ったが、調べてみると、それも無理からぬことだった。というのは、限界芸術は、論文の中で引用される鶴見俊輔によれば、あまりに生活に密着しているがゆえに、芸術であると気づかないようなものだからだ。

限界芸術の例として、鼻歌、替え歌、らくがき、盆踊り、祭、葬式等があげられているが、これらはあまりに生活に密着しているがゆえに、従来の視点からすれば、純粋芸術、大衆芸術、限界芸術の順に芸術的価値が失われていくと解釈される。しかし、鶴見は「今日の人間が芸術に接近する道も、最初には新聞紙でつくったカブトとか、奴ダコやコマ」であったといい、生活と一体になっている限界芸術こそ、純粋芸術や大衆芸術を生む源泉として重大な意味をもつとして、従来の価値序列を転倒させてしまうのである。

「『生命の革新』としての限界芸術 」秋田光軌


ブライアン・イーノのAmbient Music、環境の一部として自然に溶け込んだ音楽、音楽と意識しなくても聞こえてくるような音楽、という発想を借りて、私は日本仏教をAmbient Buddhismと表現することがあるが、鶴見俊輔の言うところの限界芸術は、ブライアン・イーノ的な意味でのAmbient Artとも呼べそうだ。


さて、この話は、私が最近考えていた、「掃除」に関する新しい見方とも関係する。

先日、バルセロナで開かれたFestival of Consciousnessでもやったように、私は時々、イベントやカンファレンスで掃除について話したり、掃除のワークショップをしたりすることがある。しかし、私は何か特別、掃除の技術に長けているわけでもなければ、掃除の専門家というわけでもない。そんな私が、ほうきを持ってステージで何かしゃべっている時など、自分は一体何をやっているのだろう、と思うこともある。でも、何かわからないけれど、必要なことだと思うので、やっている。

Festival of Consciousnessの会場で、一人でほうきを持って広場を掃除し続けてみた。何本か、ほうきを木に立てかけておいたところ、私が掃除しているのを見て、子供を含む何人かが、自主的に掃除に参加してくれた。そんなことをしながら、私が思っていたのは、掃除って、Performance Artだな、ということ。もっと言えば、Marginalized Performance Artだなということ。
通常、Publicスペースに個人が勝手に手を加えることは、公共の倫理として許されない。しかし、どうだろう。箒とちりとりを持ってストリートに繰り出せば、非難されるどころか、感謝と賞賛の的になることだってある。目の前に広がったキャンバスをどう料理するかは、完全に私の自由だ。

もちろん、掃除であるかぎり、「空間のエントロピーを下げる」という大きな方向性に沿うことは求められる。ゴミ箱をひっくり返して、折角ゴミ箱に収まっているゴミをぶちまけたりすることは、掃除とは呼ばない。しかし、最終的に空間のエントロピーを下げるのであれば、いかなる工夫をしても良い。

この「エントロピーを下げる」という行為は、森田真生さんの言葉を借りれば「”珍しいもの”を生み出す」ということである。家は手を入れなければどんどん朽ちていくように、部屋を掃除しなければどんどん埃が溜まっていくように、エントロピーというのは放っておくとどんどん高まっていくのが、エントロピーに関する熱力学の第二法則、自然の摂理だ。人間は、自ら働きかけることによって、エントロピーを下げて、珍しい状態を作り出す。それが生命活動であるとも言える。「珍しいもの」を生み出すという点では、アーティストのようでもある。

そう。掃除はとても創作的だ。「掃除をしなさい」と言われて、ほうきとちりとりを持たされることはあっても、完成予定図を渡されることはない。たとえば、新築の家の完成予想図に、ゴミや埃や落ち葉まで書き込まれることはない。掃除というタスクは、必ず、エントロピーの低い「完成」の想定状態から何かしらの変化(劣化と呼ぶ人もいるかもしれない)が起きた後に、要請されるものだ。一度変化が起きたら、自然法則からしても、100%元に戻すことは不可能なのだけど、想像的に工夫を施してエントロピーを下げる働きかけをするのが、掃除ということになる。

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