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実数と無理数、そして超越性のこと

こういう題名だと、超越数($${e}$$とか$${\pi}$$とか)の話かと思う方もいると思うのですが、(たぶん、いやかなり:…ちょっと自信がなくなってきますが、自分でも、いつもながら良くわからないことを書いているので)違うのでご注意ください。

さて、今回も次のリンク先(PDFファイル)の冒頭部分を参照しています。
【指数関数の定義について】http://takeno.iee.niit.ac.jp/~shige/math/lecture/misc/data/exponential1.pdf

まず、次の定理から始めてみます。
定理1:(単調収束定理)
実数列$${\{a_n\}_n}$$が単調増加$${(a_1\leq a_2\leq a_3\leq …)}$$で、かつ上に有界、すなわちすべての$${n}$$に対して$${a_n\leq b}$$となるような有限な実数$${b}$$が取れるとき、$${\{a_n\}}$$は有限な極限値$${\alpha}$$を持つ:
$${\displaystyle \lim_{n \to \infty} a_n=\alpha     (\leq b)}$$

この定理については、上のリンク先で「これは、実数論(実数の定義)とも深く関わって、簡単に証明できる定理ではないので……」と記載されています。また、その証明については参考文献として、田島一郎「解析入門」(岩波全書、岩波書店1981)の第2章が挙げられています。この参考文献については、時間があれば、図書館などで後ほど探してみるとして、今回、ここで書きたいことも、この「実数の定義」という言葉に関わっています。

さて、この定理1について、はじめに実数列$${\{a_n\}_n}$$が出てきますが、ここで実数列ということは、代わりに有理数列でも良いと思うわけです。例えば、無理数$${\sqrt{2}}$$を考えてみると、ここで、
$${\sqrt{2}=1.41421356237…….}$$

このうち、小数点以下$${n}$$桁で切ってみると、それは有理数になるので、それを数列の$${a_n}$$としてみます。次に$${n+1}$$桁で切ってみて、それは有理数$${a_{n+1}}$$になり、以下同様に考えていきますと、有理数列$${\{a_n\}_n}$$について、単調増加$${(a_1\leq a_2\leq a_3\leq …)}$$となります。上に有界であることは、どう考えれば適切なのか分からないのですが、例えば、$${\sqrt{2} < \sqrt{3}}$$なのですから、上に有界である値$${b}$$も決められそうです。(※ただし、ここで収束先としようとしている$${\sqrt{2}}$$を、上に有界かどうかの議論で使っていることは、トートロジーになると思いますので、実際には適切でないと思います。)

以上から、定理1により、有理数列$${\{a_n\}_n}$$は、有限な極限値$${\alpha}$$を持ち、$${\alpha=\sqrt{2}}$$になります。このように、無理数(ここでは$${\sqrt{2}}$$)が有理数列の極限として構成できることになると思います。

定理1の前提として、実数の存在があるわけですが、定理1から無理数が構成できることから、定理1は、(無理数を含んでいる)実数の性質、あるいは(無理数を含んでいる)実数の構造を示しているように思われます。また、逆に考えて、定理1のように構成できる数(ここでは無理数。有理数でもよいとは思いますが)を集めたものとして、(ほかの実数の性質も加える必要があるとは思いますが)、実数というものを定義することも可能なのではないかと、思います。

繰り返すと、定理1のように構成できる数の集合を考える。それを実数と定義するというような方向性で考えることも可能でありそうに思うのです。

私は、まったくの勉強不足なので、ここで書いたことは基本的には誤っているでしょうけれども、まあ、いろいろ考えているうちに、そういう発想になったということです。

さて、定理1について考え直してみると、極限操作を含んでいます。極限をとるということは、際限のない操作を行う、あるいは無限を折りたたんで、収束先に閉じ込めるようなことですから、この収束先には(一種の)超越性が孕み込まれていると解釈できると思います。

つまり、ありふれたものとして扱っている実数には、無理数が含まれ、その無理数は極限操作で構成されており、そこでは(一種の)超越性が孕み込まれている、ということができそうです。

ありふれた実数、あるいはそれを表象する数直線には、実際のところ、超越性が孕み込まれている。けれども、そういった実数、あるいは数直線は、目の前に、手に取れるようにポンと置かれている、ということもあります。

こういった実数についての議論は、解析学の基礎付けに関わるのではないのかな、と思っていまして、解析学の基礎付けは、ワイエルシュトラウスその他の数学者によって、19世紀に行われているようですが、そういった議論の中には、超越性を目の前に持ってくるという性質もあったのではないかと、勝手に想像しているところです。

さて、先日から、ちくま学芸文庫『柄谷行人講演集成1985-1988言葉と悲劇』に所収されている講演「ドストエフスキーの幾何学」を読んでいますが、(※本当は、この本の中の講演「江戸の注釈学と現在」(江戸期の朱子学などの話)が読みたくて、読み始めたのですが。別のこの講演「ドストエフスキーの幾何学」に引っ掛かり続けているところです。)この講演の中で、19世紀後半の数学の動きとして、(超越性をどう扱うかということに関連して、)
(1)平行線が無限遠点で交わるということで、無限遠点はふつうならどこまで行っても到達できないが、平行線が交わるという公理を採用することで、無限遠点、すなわち超越性をそれ自体としてつかむことができると考える、非ユークリッド幾何学の出現。
(2)カントールが、実無限(すなわち超越性)を一つの数のようにとらえて、無限集合論を展開したこと。
の2つが挙げられています。

それに加えて、次のことも挙げてよいのではないかと(勝手に)思うのです。
(3)解析学の基礎付け。ここにおいても、超越性がそれ自体としてつかめるものとして出てくる。

(1)、(2)、(3)ともに19世紀の出来事であり、この時期には何かがあったのだろうなあと思うところです。

(3)で扱われる実数(あるいは、例えばユークリッド幾何学のようなもの)は、私たちの知覚の基礎をなしており、カントの『純粋理性批判』のうち超越論的感性論で取り上げられていますが、この「感性論」という言葉の前についた「超越論的」という言葉の意味が、昔は分からなかったのですが、今では、少し(もしかしたら、よく)分かるような気がしています。

けれども、私たちの知覚の基礎は、必ずしもユークリッド幾何学的ではなく、ユークリッド幾何学では無限遠点からの透視図法で表現される空間も、私たちは2つの目で視覚として捉えて、あたかも無限遠点からの透視図法で表現している空間であるかのようにとらえています。こういうズレも、超越論的感性論が、超越論的であるということの理由なのだと思います。

それはともかく、この文章では、結局のところ、こういうことが言いたかったのでした。
「実数論というのは、つまりはドストエフスキーなんだよ!」
……ひどく滅茶苦茶ですね(笑)。反省したいと思います。どうかお許しください。

(追記)
私たちと神とは、ふつう、交わらない。私たちは有限な存在で、神は無限だから。けれども、超越性といったものは、上で議論したように、私たちの身近なところに、ごくありふれた形で顔を出す。
スピノザによれば、私たちは神で出来ている。そういうことを思い出す。

(追記2)
上記の定理1がよく分からない。「単調増加する数列が、極限値を持つ(=収束する?)」ということだけれども、「極限値を持つ(=収束する?)」って、どういうことだろうか。「単調増加」するなら、無限大に膨れていくんじゃないの?そうでないとして、(まあ、そうではないのでけれども)そういった「極限値」ばかりで構成されている実数って、どういうものなの?スカスカなの?べったりなの?これは、一種の構造をなしているのだろうけれども、それが、どういったものなのか、よく分からない。おそらく、位相(構造)について勉強すると、少しは分かるようになるのだろうが。ただ、実数というものが、身近なようでいて、ありふれたようでいて、(超越論的感性論でいう)直観の基礎になっているようなものでいて、でも、実際によく見てみると、直観に(全く)反するような奇妙なものである、ということに変わりはないようだ。

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