グライムスの考察 ーFrank Grimesに思いを寄せてー(※ネタバレ有)
シンプソンズでも特に印象に残るキャラクターとして、恐らく自身のみならず長年のシリーズのファンからも挙がってくるのが、「怠け者ホーマーに敵はいない」というエピソードにに登場する
「フランク・グライムス」
であるのだという。フランクは間違いなく「低所得者層の生活保護や、無能と思しき鈍感愚民の贅沢な暮らしに苛立つ形で、自らの首を絞めるかのように自己責任論に身を寄せてしまう社会的弱者」でもあり、「不幸な記憶を抱える真面目系が真面目なまま社会に飛び出し、社会の不条理に益々苛立ちを募らせ、気狂いの末路を迎えてしまう弱者男性」の側面も抱える、要するに我々のような弱者男性があらゆる角度で、時に反発を抱きながらも心境を寄せざるを得ない悲劇の登場人物なのである。
ちなみに、このエピソード自体は中高生時代に視聴したことはあったのだが、その時は「ホーマー・シンプソンに理不尽に苛立つメガネのオッサン」という印象しか抱かなかったと思う。自身がまだ世間や社会を何一つ知らない、盆暗であったが故のことではあるが、しかし大学時代から始まった抑うつ状態から6年の空白期間を経た後に、低賃金の契約社員を4年半続けた後に眺めるグライムスは、まさに悲劇の存在であったのだと考えを180度改めることになる。
もちろん、今も昔も基本的に「ホーマー・シンプソン」という腹の出っ張った、しょーもないオッサンの大ファンである(笑)ビールと食べ物があれば幸せ者で、政治にも社会時事にも関心が薄い割に妙なおせっかいを繰り返し、何気なく面接に訪れた原発で何故だか仕事を得てしまう能天気さ(しかも危機管理部門…冗談にならない/笑)も含めて、バカボンのパパばりに「これでいいのだ!」と言わんばかりの生き方をしても、肯定的に受け止めてくれる人たちがいるという意味合いも含め、どこか彼に魅了されてしまうのである。そこに「すべては自己責任」という形で真面目も理不尽も背負い込む、まさに適当な生き方で幸せに暮らすホーマーとは真逆ともいえるグライムスを配置することで、改めて両者の対比が画面越しに展開されるのだが、それがより一層グライムスの悲劇性と遣る瀬無さを際立たせているのだろう。
どうしてグライムスはホーマーに嫌悪感を抱かざるを得ないのか、それは「怠け者な上に苦労を知らない人気者」であり、「ガサツで適当なのに、自分よりも社会的評価も生活水準も高い」からでだろう。幼少期に両親に捨てられ生きるために児童労働も強いられ、青年期の大けがにもめげずに原子力関連の資格を取得したグライムスは、確かに社会的には真面目で逆境にも負けない非常に立派な人物ではあるものの、人気者としての素質や面白味は正直言って皆無でもある。
ちなみに、アメリカ社会と関連してグライムスの解説が簡潔になされているサイトも見つけたので、ご参考までにご覧いただければと思う。自分はそれほどアメリカ社会を深く知る身ではないので、今回はそうした部分に触れることは割愛させて頂きたいけれども。
http://database.jsas.net/mapping/items/ar0012017008/
しかし、人気者であることの旨味を知らないまま大人になったグライムスは、初めてホーマーという存在を目の当たりにして困惑し、そして大いなる嫉妬と憎悪に駆られてしまう。どうしてあんなにふざけた奴が、真面目な自分よりちやほやされるんだ…こういう展開、実は自己責任論を振りかざしてしまう層の苛立ちに共通しているのではないだろうか。
大学時代に散々眺めてきた自己責任論の蔓延は、何も時の政権やJリベラルが語るところの保守の論理とはそもそも全く関連を持たず、本質的には「真面目で現実に苦労している自分より、能天気に見える存在に対する軽蔑」を根本としているように感じられた。マウント学生にはありがちな話ではあるが、単に遊ぶお金のために続けているアルバイトを、あたかも自立した生活のために仕方がなく無理して続けているかのように話す口調は、まさしく真面目であることのマチズモ(優越感)であり、大学生同士の会話は、そんなマチズモを互いに見せ合うような展開で始まるようなものが多かったのは覚えているし、そんな空気感にこそ居心地の悪さを覚えていたことも深く自身に刻まれている。
実を言うと、大学時代は学業第一の真面目さが仇となっただけでなく、人間不信故にアルバイトの面接もままならなかった自分は、学生時代に就業歴がほとんどないまま(既卒というレッテルと共に)卒業してしまったのだが、別に贅沢にお金が使えるほどの身分でもなく、色々と切り詰めて生活していたのは事実であるのに、かといって苦労人学生を演出するような素振りも言動も嫌だから、他人とのトラブルを避けたいが故に「正しさのマチズモ」を避けて愛想を振りまいているだけなのに、それが傍から見れば能天気そうな存在に映ってしまうのであろう。そんな自分を見ると、決まって学生たちが言葉にするのが、「お前って苦労を知らなそうだよな」というような類の嫌味である。
多分、Jリベラル界隈で騒がれているマイクロアグレッションって、本来はこういう実例を指すのではないだろうか。実際のところ、月2万ほどの小遣いも生活費以外は殆ど利用せず、そもそも大学内に友人も非常に少なかったので利用する機会すらなかったのではあるが、そういう「苦労に見えない苦労」を重ねる現実に当時の学生連中が理解を寄せるわけもなく、結局は嘲笑の対象として直接ではなくとも「間接的に」会話の中で劣等感を抱かされて、自身は次第に大学生活から弾かれていく形となる。不思議なのは、未だに「大学生として4年間を過ごしたが、(イギリス留学を除いて)大学生活の記憶が全くない」ということだ。要するに、大学内で学生らしい生活をした記憶が残っていないのだが、それほどまでに疎外感に苛まれていたことの表れでもあるのだろう。
あまり暗い過去を振り返っても仕方がないので、これ以上は触れないことにするが、要するにグライムスは「面白みを知らないまま大人になってしまったが故に、面白みのない人物」でもあり、そんな面白みのない人物が最も嫉妬を滾らせてしまう対象として「ホーマー・シンプソン」に偶然にも出会ってしまったのが、先のエピソードなのである。
人間不信を抱えていたが故に、ピエロとして他者との関係をやり過ごすしかない中で、結果的に孤独に陥った自分とは異なり、隣人にしたら迷惑ではあれど(笑)ホーマーは純然たる人気者であるから、そうした鈍感力が彼の人生を支える最大の要素であると同時に、そんな彼であっても悪意に晒されることがない世界を羨ましくも感じてしまう自分がいる。逆に一見すると苦労人という意識が増幅する中で実力主義的な自己責任思想を強めるグライムスに対して、そうした悪意に晒されてきたという被害意識の強い自身は、むしろ敵意を抱きそうではあるものの、そこに同調することがなくとも「同情」という形で何とも相反する感情を抱いてしまうのも、このエピソードが特に印象的な理由の1つかもしれない。
最も、今のは両者を概念的に比較した上での話ではあるのだが、実際にエピソードを改めて眺めてみると、ホーマーがグライムスに接する態度に「当事者としての苛立たしさ」に共感せざるを得ないのも確かだ(笑)というのも、勝手に名前入りの所有物に噛み跡を残らせたり、劇物を誤飲しそうになるホーマーを庇って、会社の備品を不運にも破壊してしまった際に社長に呼び出され、言及も含めて自身が全ての責任を負う形になり、あるいはホーマーの自宅に招かれた際に「実力を伴わない格差社会」を目の当たりにしてしまったり…確かに、物語的にもグライムスがホーマーに対して敵愾心を抱くのは、気の毒なまでに致し方がないようにも思う。
個人的に特に印象的だったのが、先のホーマーの自宅を訪ねた際の「格差社会」を目の当たりにしてしまった後に放たれた、「上も下もボウリング場(のある部屋で寝ている)」という台詞なのだが、これは恐らく本当にボウリング場が上下に設置されている劣悪物件で就寝を余儀なくされているのではなく、幻聴や一種の不眠症の喩えだと考えると酷くしっくりくるのだ。
話を戻すが、先の「備品の破壊」に伴う減給によって、夜勤も強いられてしまうグライムスの生活は、ただただ仕事に追われるだけの終わりなき日常そのものであり、そんな生活の中で唯一の憂さ晴らしの機会を得ることになったのが、後半部で語られる「ホーマーへの騙し討ち」としての「児童向け原発模型コンテスト」のシーンである。
このシーンは「真面目であるが故に生まれる冷笑」の真骨頂であり、その冷笑を原発内のスタッフを巻き込む形で、ホーマーに晒してやろうという魂胆が見え見えなのだが、あろうことか「ホーマーはガキを負かした!」と最優秀賞を獲得した彼に賞賛が浴びせられてしまうことになる。自身が抱えてきたホーマーに対する様々な冷笑や苛立ちが、大勢のマトモな思考を持つはずの大人たちの前で残酷にも否定されてしまったグライムスは、「この原発はすべてがオカシイ」と言い放ちながら完全にタカが外れてしまい、素手で汚くドーナツを食い漁ったり、小便の後に手を洗わず退出したりなど、周囲に「俺はホーマーだ」と歪に公言しながら「崩壊」していくことになる。
最終的に「大丈夫、だって僕はホーマー・シンプソンだから」と言いながら、高圧電線に素手で触れて自死を遂げるグライムスなのだが、その最期を眺めるバーンズ社長も含めた社員の目線も、冷酷とも違うが憐みの中に感じられる恐怖心からの不干渉という冷淡が感じられて、何とも言い難い心境に陥ったのも憶えている。グライムスの立場であったら、もしかしたら止めてほしいと思う気持ちも生まれるのかもしれないが、傍観者としては何もできることはないと感じる冷静で冷酷な自分もまた存在するので、まさしく「何とも言い難い心境」であったのだろう。
ちなみに、グライムスのデザインが「アジア系男性の真面目さ」を揶揄するものだと一部で批判を集めていたようだが、モデルになったのは地味でさえない真面目系白人男性の狂気を描いた、マイケル・ダグラス主演の「Falling Down」である。
意外かもしれないが、ストレス社会で忍耐を強いられることの多い男性こそ、タカが外れるようなことが実は多いような気がしてならない。勿論、自身も一度社会復帰4年目を迎えて、緩やかに精神も身体も崩壊してしまったことだって例外ではないのだろうが、それが些細な苛立ちの中で生まれてしまい、矛先が社会に向かってしまうと大変な事態となってしまうのだろう。
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