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高度な嘘

この前のスペースで出た話題。
「人間の認知は人間の認知以上のことを認知することはできない。人間だもの」。
別の言い方をすれば、その存在が持つ構造(ルール、真理とも言える)に許されたこと以上のことはできない。
これは結構重要な話。例えば、どう認知するかって人が決めてる。「目の前に物がある」、「人がいる」、「生物がいる」、エトセトラエトセトラ。そうやって「存在してる」って思ってるのは自分。もしかしたら、本当は目の前には何もないのかも知れない。
この文章を読んでいると思っている。でも本当はなーーんにも書いてないかも。日本語で書かれていると思っている。でも本当は別の言語かも知れない。だってそれが目の前に「ある」って確証はないから。
科学的な証拠を集めたところで、「証拠がある」って思ってるだけかも知れない。だから「証拠がある」って言っても、本当の本当にその証拠が合ってるの?ってところを考えると、絶対そうだとは言えないってことになる。だって、「証拠がある」って思ってるだけかもしれないから。
逆に言うと、「本当に存在してるかどうかなんてわからない」はずなのに、それがあると信じて疑わないからこそ、それが存在してると言える。

これが基本だと考えると、例えば「宇宙が存在してる」って思ってる(認知してる)のは人。本当に宇宙が存在しているのかどうかはわからない。
「宇宙が存在する」という、認知をしている。宇宙には星があるという認知をしているだけかもしれない。

ということはですよ!

何の分野で何を考えたとしても、それは認知を追究していることに他ならないってことになる。逆を言えば、認知を追究しなきゃ世界のことはわからないと言える。だって、そう認識している自分がいるって話だから。
じゃあ自分ってどういう存在?って考えると、人間ですよね。ということは人間の認知を追究すれば世界がわかるとも言える。
ただその「世界がわかる」ってのも認知の範囲から出られないわけなので、本当の本当のところはどうなのか?ってことは絶対だーれにもわからない。
でも「より確かそうなこと」には到達できる。
という理由があるので、宇宙を科学するにも、自然を科学するにも、何を科学するにも、もちろん科学する以外にも、人間の認知を、ひいては人間それ自体を理解する必要があるということになるわけです。
なぜ「ひいては人間それ自体」なのかと言うと、「認知する」という能動は脳、体といった人間が持つすべてを使って行われるからです。つまり、認知を理解しようと思うと大抵は脳に焦点が当たりますが、脳の構造だけでなく、体の構造、そしてその構造がどのようにできているかまで理解できてはじめて「認知」を理解できる。なので人間それ自体となる。

再三言いますが、そこまで追究しても本当の本当のことである証拠はない。いわば嘘とも言える。
しかし、そうして寸分の狂いなく嘘を追究していくことで、それはなんの狂いもない現実に成る。目の前にこの文章が存在しているように。

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