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親ガチャ、子ガチャ

法話 88号 8月・9月 発行「親ガチャ、子ガチャ」

城福雅伸

<親ガチャ>

 昨今「親ガチャ」という言葉を聞きますが、我々が学生の頃は、「親ガチャ」という言葉はありませんでした。紺谷典子氏によると、経済の衰えた先進国も含め、全世界の国民の平均所得が、この20年間で最低2倍になっているそうですから、日本人の平均年収は、20年前に500万円代であったとしますと、現在は少なくとも1000万円以上あることになります。ところが、現在、日本のみが、規制緩和以降、大企業の役員の年収は先進国に歩調をあわせ倍増、倍々増、あるいはそれ以上になり、高名な大企業の会長の報酬は、ほぼ10億円になりながらも、一般の国民の年収は、500万円から600万円前後と数十年間「据え置き状態」という世界ではあり得ない異常な状態にあります。このため、富んだ親の子に生まれると富の継承と上昇の固定化がなされ、貧しい親の子に生まれると貧しさの継承と固定化が生じるという、たまたま生まれた親の貧富によって、子供の未来の貧富も人生も決定し、個人の努力では挽回が効かないため、「親ガチャ」という言葉が出てきたと言ってよいでしょう。規制緩和までは、人生は、生まれた環境にある程度、左右されながらも、個々の努力によって、人生を切り開く余地があったので「親ガチャ」は言われませんでした。若者は、豊かな感性によって、以上のことを窺知し、すべてまとめて「親ガチャ」の一言で表現していると言えましょう。

<インドの哲学書によると>

 インドの哲学書を見ておりますと、生まれてくる子供は、次に親になる男女の性行為を横で見ているそうです。性行為をしている男性側に愛着がわき、女性側に嫉妬心がわいて「あっちへ行け」と思い迷い、ついにその迷いが極度に達するとその瞬間、その女性の胎内に宿り、女性としての生を受けるといいます。男性として生を受ける場合は、この逆で、性行為をしている男女の女性側に愛着がわき、男性側に嫉妬し「あっちへ行け」などと思い迷い、その迷いが極度に達したその瞬間、その女性の胎内に宿り、男性として生を受けるということになるそうです。あくまで伝説ですが、この伝説によれば、子供は親は選べないという「親ガチャ」ではなく、子供は自分で親を選んできたことになります。

<子ガチャ>

 また親からすると、「子ガチャ」もあるのではないかと思います。将来、発明家になって欲しい、あるいは、プロのサッカー選手や野球選手に、あるいは音楽家にと親の願いは尽きず、また様々です。しかし、その願い通りに子供が育たないことも多いのではないかと思います。倫理観のある、真面目な親が、優しく、いっしょうけんめい子育てをしても、子供はなぜか遊び人になり放蕩の限りを尽くしたりすることもあるでしょう。これらは「子ガチャ」ということになると思います。しかし、親は、子供がどうであっても、子供のすべてを受け入れて、むしろ、自分のところに来てくれたのだと、ありがたく思って慈しみ育ててきました。子供も、やがて、その親の心、慈しみがわかり、親を大切に想い感謝してきました。

<ご縁>

 そういった人智ではわからない出会いをまとめて、特に日本では仏教の用語を借りて「ご縁」と言ったのだと思います。日本人は、「ご縁」を感じ、受け入れ、大切にし、感謝し、がんばってきたのですが、この伝統と心を踏みにじり破壊し、「親ガチャ」という言葉を作り出したのが規制緩和であり、その罪は大きいと思います。「子ガチャ」を言わないのは、「子ガチャ」は、「規制緩和」がかかわらず、今も、古来からのままであるため、人々が古来の「ご縁」の理解のまま受け取っているからだと思います。

《結びに代えて「お陰様で」ということ》

 「親ガチャ」の言葉の出現とともに、昔から日本で言われてきた「お陰様で」ということが、あまりいわれなくなってきました。 昔から日本では、自分が成功しても、富んでも、その成功や富は、他の人々や環境の「お陰」であるという意識、つまり「お陰様」という意識があったのです。膨大な年収を得ている大企業の会長や役員が、「お陰様で」という古来聞かれた言葉を一切口にしなくなったのは、会社が繁栄し、膨大な年収をいただいているのは、すべて、自分のみの努力の結果であり、自分のみの功績であるから、富を独り占めしてよく、成功しなかった人は努力を怠ったからだとする規制緩和の自己責任論と競争原理で物事を考えているからでしょう。「お陰様で」は、失敗した人にも、ご縁が揃わなかった面もあるから、責任のすべてをその人のみに帰すことのない、あたたかさをもった言葉であり、考えでもあります。

 再び、「お陰様で」という言葉が出る社会になったらいいなあと思っています。

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