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ライバルは、同世代人ではなく、同時代人

「同世代人」という言葉をご存知でしょうか。

同世代人は、自分の同級生と、プラスマイナス2〜3歳差の人を指します。
(すみません、私が今勝手につくりました)

日本人はこれまで、同世代人とたたかうことが常でした。

学生時代は、とくにその傾向が強い。同級生と運動能力を比べられ、芸術的感性を比べられ、成績を比べられ……。
その結果は「偏差値」という形で、「周りと比較して、このくらいの位置にいる」と評価されてきました。

この「同級生・同世代との比較」は、就職活動にも及びます。
ほぼ同じ年に生まれた人同士で、誰が優れているかを比べられ(学力だけではない、コミュニケーション能力や容姿も)、より好ましい方が採用となります。

会社によっては「同世代競争」は、50代の出世にまで影響を及ぼすかもしれないのです。

この競争は、ある意味苦しく、ある意味ラクなもの。
同じ年に生まれたものに負けるのは悔しい反面、同じ年に生まれたものに勝てばそれでいい、というのは、ライバルの絶対数が少ないため、負荷が少ないのです。

しかし、そんな慣習も、歴史の遺物になりつつあります。
はっきり言うと、日本だけの「ローカルのしきたり」であるため、システム疲労を起こしつつある……気がします。

時代は変わります。
現在、比べる相手は、同世代人だけでなく、
「同時代に生きるすべての人」となりました。

どういうことでしょうか。
プロスポーツの世界を見るとよく理解できます。

野球でもサッカーでも、スポーツの世界では18歳でも40歳でも、世界中同じルールでたたかっています。
「君は日本生まれ、かつプロ1年目だから、ハンデをつけてあげよう」なんてことはあり得ない。
場所が世界の裏側でも、プロ1年目でもプロ20年目でも、まったく同じ条件でたたかっています。

この状況が、ビジネスの世界にも及んでいます。
実力主義の人事……はその一端で、企業同士の戦いが、世界的にフラットになっている。
規模が大きく、歴史のある企業が有利なのではなく、社員数名のベンチャー企業が作ったサービスが、世界を席巻し、業界の壁をディスラプト(破壊)する時代。

そのような時代において、
ライバルは、「業界○位のあの会社」ではない。
「同時代に生きる、野心的な人と組織」になります。

この全員ハンデなしの意識、というか、
「同世代人ではなく同時代人と比べる」意識は、
個人の思想にも表れているように
思うのです。

SNSの炎上に見る、「同時代」感覚


ちょっとずれますが、昨今のSNSの炎上騒ぎでも、この「同時代比較」感を感じます。

インターネットの世界では、全員が「対等」です。
どんな人でも、自分で情報を発信した以上、責任を追わなければいけない。
「<SNSの中のひと>は未成年で、きっとインターネット1年生だから、大目に見てあげよう」ということはあり得ません。

なにか好ましくない言動をしたら、「つまらない」「消えろ」とコメントされ、負の感情とともに、シェアされていきます。

それは相手が、小学生だろうが、中学生だろうが、外国人だろうが、70代80代の高齢者だろうが、関係ありません。

この傾向は、「同世代で優れていれば、OKだよ」という
「同世代比較意識」が薄れていることを、端的に表していると思うのです。

この状況が好ましいかどうかは、また別の話ですが、
この潮流が、人の価値観に時間をかけて浸潤していくのは、たしかだと思います。

このような世の中で、どうすれば生き抜くことができるのか。
「同世代人ではなく、同時代人と比較されている」という意識を客観的にもつことが必要だと感じます。

小さな心構えですが、その自覚があるかないかで、その後の結果は大きく変わってくるように思うのです。

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