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平和と福祉のために行動する「象徴」

 上皇となられた平成の明仁天皇陛下と上皇后となられた美智子皇后陛下は、日本国憲法のもとで初めて即位し、以来、「日本の象徴」として望ましい天皇の在り方を求め続けられてきた。
 平成元年の即位にあたっての記者会見では、「憲法に定められた天皇の在り方を念頭に置き、天皇の務めを果たしていきたい」としたうえで、「現代にふさわしい皇室の在り方を求めていきたい」と述べられた。

 平成3年に起きた長崎の雲仙・普賢岳の噴火災害では、天皇陛下の考えが目に見える形で示された。皇后さまと共に被災地を訪れ、避難所の板張りの床にひざをついて、被災者一人ひとりに同じ目の高さで話しかけられる姿が印象的だ。その後も、阪神・淡路大震災や東日本大震災など、大規模な災害が起きるたびに被災地を訪れ、被災した人たちに心を寄せられてこられた。また、障がい者や高齢者の施設を訪れるなど、社会的に弱い立場にある人たちにも寄り添われてこられた。

 それだけではない。日本の国民に対して、日本人が戦争で経験させられた大変なことだけでなく、日本が過去に、特に近隣諸国の人々に行なった酷い行為に対してもしっかり思い出し、記憶し続けることが大事なのだという誠実なメッセージを伝えてこられた。平成の天皇と皇后は国際協調主義に基づいた行動を続けられた。戦争の傷痕を癒そうと国内外の悲劇の現場に赴き、鎮魂の祈りを捧げるという行動を含め、その根本には戦後憲法の価値を重視するというお考えがあったことも間違いない。

 明仁天皇のお言葉で衝撃だったのは、2001年の誕生日の記者会見で語られたものだ。

「日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や、招聘された人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が、日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは、幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを私どもは忘れてはならないと思います。両国の国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の人々が、それぞれの国が歩んできた道を、個々の出来事において正確に知ることに努め、個人個人として、互いの立場を理解していくことが大切と考えます。このことを通して、両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。」

 こうした務めについて、明仁天皇陛下は「戦後に始められたものが多く、平成になってから始められたものも少なくありません。社会が変化している今日、新たな社会の要請に応えていくことは大切なことと考えています」と述べられている。「昔に比べ、公務の量が非常に増加していることは事実です」としながらも、「国と国民のために尽くすことが天皇の務めなのです」と、数多くの公務を美智子皇后陛下と共に一つ一つ大切に務められた。

 「自らお考えになられて、日本国憲法の柱である平和と福祉に尽くし、それを行動にうつす象徴」となられた上皇様と上皇后様の姿勢は、そのまま令和の徳仁天皇様と雅子皇后様に引き継がれ、国内だけでなく、世界で大変な思いをしている人に手を差し伸べられている。

 天皇家のあり方については、様々な議論があるのかもしれないが、少なくとも平成と令和の天皇陛下と皇后陛下は、日本だけでなく世界の平和と福祉に尽力し、その姿勢を継承する「象徴」であることは素晴らしい。

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