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ユニセフ77周年に考える子どもの権利の保障

 昭和21年12月11日、国連は、第二次世界大戦後の子どもたちへの人道支援のため「国際連合国際児童緊急基金」を設立、この英語の頭文字をとってUNICEFと呼ばれた。第2次世界大戦が終わったあと、世界には親や家を失うなど厳しい暮らしを強いられた子どもたちが激増した。

 そうした子どもたちを国連が助けようと、ポーランドのルドウィク・ラフマンがユニセフの創設を提案、初代事務局長はアメリカ人のモーリス・ペイトがつとめ、世界で苦しむ子どもたちに食べものや薬を届ける活動をはじめた。

 日本の学校においては、連合軍総司令部GHQの勧告により、ララ委員会(アメリカの宗教団体を中心とした慈善組織の特別委員会、アジア救援公認団体の略称)から救援物資が送られ、無償で与えられた脱脂粉乳を用いて、昭和22年から学校給食が始まった。昭和24年、占領軍司令部内に設けられたユニセフ駐日代表部が窓口となり、ユニセフからのミルク(脱脂粉乳)の寄贈を受けてユニセフ給食が開始される。その後、全国的に国庫補助による学校給食の継続を要望する運動がおこり、昭和29年に学校給食法が設立され、給食は福祉から教育へと位置づけを替える。

 私が3月まで勤務していた児童養護施設の記録によると、昭和25年、日本ユニセフ協会が設立されると、児童収容施設に対してもユニセフ脱脂粉乳配給給食実施の通達がされる。昭和25年4月28日の日誌には、ユニセフから225封度(封度=ポンド)入り脱脂粉乳ドラム3缶が施設に受配された記録が残る。ユニセフと県から、児童1人あたり1日50gの脱脂粉乳を摂取させるよう指示があり、具体的な献立作成についての注意がなされ、さらに確実に脱脂粉乳の摂取を施設が子どもたちにさせているかどうかも含め、ユニセフ脱脂粉乳の運用が国際的信義に関わる問題でもあるため、毎月の「ユニセフ月報」なる報告書の提出が義務付けられた。 

 昭和27年7月には、ユニセフから綿布の配分があった。各施設に配分される綿布は児童一人につき約0.87碼(碼=ヤード)で、原則としてユニセフの本旨に従い、各施設でシャツやパンツ等、児童が直接身に付ける衣料に加工するように通達がなされた。施設の児童在席数73名に対して64ヤードの綿布をいただいた。

 15年に及ぶ日本へのユニセフ援助額は当時の金額で65億円に及ぶ。その間、日本ユニセフ協会が設立され、日本は支援される側から支援する側になり、以来、ユニセフのパートナーとして、貧困や自然災害、紛争などによって苦しむ世界の子どもたちを共に支えてきた。

 今や日本からの募金額は世界33のユニセフ協会で最大規模を誇る。創設当時、年間2500万人だった5歳未満児死亡数は5分の1に、多くの国で初等教育の就学率は9割に、予防接種やワクチンの普及で感染症による死から守られるようになった。しかしながら、現在も世界のどこかで6秒に1人、5歳未満児が命を落とし、子ども6人に1人が極度の貧困にあえぎ、12人に1人が小学校に通えず、年間約3億人の子どもが大人からの暴力、搾取、虐待にさらされ、子どもを含む約20億人の人が「安全な水」を飲むことができない。

 ユニセフだけでなく、私たち大人には、すべての子どもの人権を保障し、夢と希望に充ちた未来を子どもに継承するために、あらゆる努力と行動を紡ぐ責任があるのだが…。無力感に苛まれつつも、一人ひとりができることを前向きに地道に積み上げるしか方法はない。

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