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運動会の歴史:えっ? そんな競技が存在した?

 日本では、学校はもちろんのこと、会社の運動会、町内の運動会などたくさんの運動会が行われる。種目もかけっこやリレー、騎馬戦などとならんで、パン食い競走や障害物競走、フォークダンスなどがある。 会社の運動会となると、仮装行列がある場合もある。そう考えてみると、運動会とは実に奇妙なイベントである。パン食い競走とはいったい何を競う競技なのだろうか? スプーン・レースや大玉転がしは、いったい誰が何のために考え出したのだろうか? 騎馬戦や棒倒しは? どうして仮装行列などというものがあるのだろうか? こんな奇妙な種目のあるスポーツ大会は、外国には存在しない。オリンピックの競技にもない、日本独自のおもしろい種目が含まれている。どうして日本人は、こんな奇妙なスポーツ大会を生み出したんだろうか?
 
 日本で運動会のようなものが初めて行われたのは、1874(明治7)年のことだった。その名は「競闘遊戯会」。開催したのは東京・築地の海軍兵学寮だった。「競闘遊戯」は、実は「アスレチック・スポーツ」を直訳した言葉である。

 その当時の兵学寮のカリキュラムは、教室で座って学ぶ座学ばかりの授業だった。さらに当時の日本には、まだスポーツという概念はなく、体育の授業としては、馬術や武道だけで体を動かして楽しむ機会が極端に少なかったという。当時、イギリスでは労働者向けのアスレチック・スポーツの行事がすでに行われていた。それを知った海軍兵学校が「欧米で行われているアスレチック・スポーツを日本でも取り入れるべき」と考え、開催することになった。

 同じ年に、札幌農学校【北大の前身】で力芸会が開催され、1885年に東京大学で【運動会】が行われ、全国的に盛況となり当時の文部大臣が学校教育の一環として【運動会】を開催するようにと全国の学校に義務付けました。

 当時、イギリスでは労働者向けのアスレチック・スポーツの行事がすでに行われていた。それを知った海軍兵学校が「欧米で行われているアスレチック・スポーツを日本でも取り入れるべき」と考え、開催することになった。

 「競闘遊戯会」の競技種目は以下の通り。
燕子学飛『つばめのとびならい』    300ヤード走
老狸打礫『ふるだぬきのつぶてうち』  ボールの遠投
蜻蛉飜風『とんぼのかざがえり』    棒高跳び
野鶴出籠『かごのにげづる』      競歩
乳猿避猟『こもちざるのかけぬけ』   おんぶ競争
文鰩閃浪『とびのうをのなみきり』   幅跳び
白鷺探鰌『さぎのうをふみ』      三段跳び
暁鴉乱飛『あけのからす』       270m障害物競走
大鯔跋扈『ぼらのあみごえ』      高跳び
蛺蝶趁花『てふのはなおひ』      二人三脚
挽馬脱轅『ばしゃのはなれうま』    目隠し競走
玉兎躍月『うさぎのつきみ』      立三段跳び
猴獼偸桃『さるのももとり』      卵拾い競争
須浦汲潮『すまのしほくみ』      水桶運び競走
神鷹捉魣『わしのいなとり』      豚追い競争

 こうしてみると、現代の運動会競技とさほど変わりのない事が分かるが、卵拾い競争と水桶運び競争については説明が必要だ。卵拾い競争は、200ヤードの間に卵を10ヤード間隔に置き1つずつ置き、20個の卵を拾い集めながら走る競技。水桶運び競争は、頭の上に水を入れた桶を乗せて50ヤード走る競技。目隠し競争は当時「まったく危ない。怪我でもしたらどうする」と非難を浴びている。ちなみに、プログラム最後のメイン競技は豚追い競争だった。豚に油を塗って行ったため、捕まえてもつるつる滑って逃げられてしまい、会場は大爆笑だったそうだ。

 現在の運動会は、赤組と白組に分かれて戦うことが一般的だ。この赤と白の起源は、平安時代末期の源氏と平氏の戦いの際、敵と味方を区別するために、赤と白の旗を背中に付けたことがもとになっているそうだ。ご存じだとは思うが念のため、白が源氏で赤が平家だ。

 「運動会」という言葉を初めて使ったのは、東京大学で、1882(明治16)年、「勉強ばかりやっていると潤いがなくなる」という理由で多くの人々に見てもらう大会として「運動会」と名付けた大会を開催した。日本初のスポーツ指導書も執筆したイギリス人教師ウィリアム・ストレンジの指導で開かれた。当時はまだ満足な運動器具もなかったため、ハードル走のハードルは教室のベンチを使ったそうだ。
 東京大学にとってこの「運動会」という名前は特別なもの。東京大学運動会硬式野球部、東京大学運動会ラグビー部など、他校の「体育会」に当たる組織を東京大学では「運動会」と呼んでいる。

 大学での運動会とは別に、1881(明治14)年には、東京・神田の体操伝習所で、教育関係者に体操の普及を図る「体操術演習会」が開かれた。最初の演習会は体操が中心だったが、1883(明治17)年に開かれた大会では、綱引きや球技も開催され、団体競技を重視するようになり、これが全国に運動会を広めるきっかけになったと言われている。

 そして決め手となったのは、初代文部大臣森有礼が体育による集団訓練を推奨したことだ。1885(明治19)年発布の小学校令で体操が正式に学校教育課程に入ると、運動会も全国の小学校で開かれるようになる。

 この当時全国の小中学校でよく開かれたのは、「連合運動会」というもの。実はほとんどの学校には、まだ運動場がなかったため、県や郡単位で学校が集まって運動会を行った。会場は神社や寺の境内。運動会は遠足を兼ねた行事で、他校や地域との交流イベントとしても発展していった。その後、1900(明治33)年に学校への運動場の設置が義務付けられると、運動会は学校と地域が共同で行うお祭りのようなものになっていったのだ。

 10月は運動会の季節。やっと驚異的な暑さがやわらぎ、徐々に運動会に適した気温になってきた。子どもたちの歓声と活躍が楽しみな季節になってきた。



 

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