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ニーチェと鶴太郎

 片岡鶴太郎氏。お笑い芸人だったはずだが、いつのまにか俳優として刑事ドラマの主役を務めたかと思えば、ボクシングに打ち込んだり、絵画で独特の作品を生み出したりと新たな世界にチャレンジし、自らの可能性を追究している方だ。
 鶴太郎氏は、明治時代に活躍した文芸芸術家・高山樗牛|《たかやまちょぎゅう》の言葉「己れの立てるところを深く掘れ、そこには必ず泉あらん」を引用し、道を選ぶときに大切なのは自分の魂が何を求めているのか、そこに尽きると語っている。

 「己の立てるところを深く掘れ、そこには必ず泉あらん」…この言葉を私自身は、あれこれと手を広げるよりも、まずは自分が取り組んでいることをあきらめずにとことん探究しなさいという意味だと捉え、とてもいい言葉だと感心した。

 インターネットで高山樗牛のこの言葉を検索していて、哲学者のニーチェが同じような一文を遺していることを知った。フリードリヒ・ニーチェの『悦ばしき知識』という書物の中に、「汝の立つ処深く掘れ、そこに必ず泉あり」がある。2022年のNHKの朝ドラ『ちむどんどん』の中で、ニーチェの言葉として引用されているということもわかった。高山樗牛がニーチェの言葉を引用しているのだが、ニーチェの言葉とされているものも、実はニーチェの研究対象者の言葉から引用したものだという説がある。真相はわからない。

 Mr.Childrenの名曲『名もなき詩』に「愛、自由、希望、夢 足元をごらんよ きっと転がってるさ」というフレーズがあり、ニーチェや高山樗牛の考え方を体現しているような感覚がある。

 さて、ずいぶん遠回りをした感があるが、ここで片岡鶴太郎に戻すこととする。片岡鶴太郎は自分の人生を次のように語っている。

「僕は他人様とのご縁で生かされてきたということです。何かを求めて道を行くと、必ずそこで力を貸してくださる大切な方とのご縁を神様からいただいてきました。求める力が強ければ強いほど、そうしたよいご縁を引き寄せる吸引力が働くと僕は思います。」

 徒然草の第92段に「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり。毎度、ただ、得矢なく、この一矢に定むべしと思へ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠の心、みずから知らずといへども、師、これを知る。この戒いましめ、万事にわたるべし。」とある。

 その意味は次の通りだ。
「習い始めの人は、二本の矢を持ってはいけない。二本目の矢をあてにして、初めの矢おろそかにする心が生じる。射るたびごとに、ただ、当たりはずれなど考えず、この一本の矢で決めようと思え。たった二本の矢で、(しかも)先生の前で、その一本をおろそかにしようなどと思うだろうか。(いや、思わないだろう。)なまけて緩んだ心は、自分自身では分からなくても、先生はそれを理解している。この戒めは、すべての場合に当てはまるだろう。」

 先人の言葉には、充実した人生とはいったいどんな生き方なのかを考えさせらる示唆に満ちている。

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