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関東大震災での知られざる虐殺事件

  朝鮮人あまた殺されたり 
  その血百里の間に連らなれり
  われ怒りて視る、何の惨虐ぞ 

 関東大震災の直後、荻原朔太郎が詠んだ詩である。

 1923年9月1日11時58分、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9と推定される関東大地震が発生した。この地震により、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県で震度6を観測したほか、北海道道南から中国・四国地方にかけての広い範囲で震度5から震度1を観測し、10万棟を超える家屋を倒壊させた。発生が昼食の時間と重なったことから、多くの火災が発生、大規模な延焼火災へと拡大し、死者・行方不明者は約10万5千人に及ぶ甚大な被害をもたらした。その9割が焼死である。参考までに、阪神淡路大震災の死者・行方不明者は約5千5百人で、その7割が倒壊した建物の下敷きになっての圧死、東日本大震災の死者・行方不明者は1万8千人で、その9割が津波による溺死だ。

 昨日9月1日は関東大震災からちょうど100年。この数日、新聞でもテレビでも関東大震災の話題でもちきりだった。昨日は、風媒社という名古屋では有名な出版社の編集長である劉永昇さんの講演を聴く機会に恵まれた。タイトルは『<不逞鮮人>とは誰か 関東大震災 朝鮮人虐殺を読む』。
 関東大震災発生時に、朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマが広まったという話は知っていたが、根も葉もないデマの広がりで6000名を超える朝鮮半島出身の人がこともあろうか虐殺されていたとは知らなかった。
 
 関東地方は地震によって壊滅的な被害を被り、民心と社会秩序がひどい混乱に陥ったことを受けて、内務省は戒厳令を宣告。各地の警察署に治安維持に最善を尽くすことを指示した。しかし、そのときに内務省が各地の警察署に下達した内容の中で「混乱に乗じた朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」という内容があった。この内容は行政機関や新聞、民衆を通して広まり、多数の朝鮮人が虐殺されることになるが、朝鮮人に間違われた中国人、さらには耳の聞こえない聾者や方言を話す地方出身者の日本人も殺傷されるに至った。
 
 1910年に日韓併合により、朝鮮半島を支配下に置いた日本は、その後の1914年に第一次世界大戦が勃発した頃には安価な労働力として朝鮮人を積極的に活用する。ちょうどこの時期に朝鮮人のことを「不逞鮮人」と揶揄する表現が使われるようになる。1919年、朝鮮人が三一独立運動をはじめると、日本の新聞にも「厄介ない不逞鮮人」という記事が連載される。「不逞鮮人」とは「大日本帝国に反逆する凶悪なテロリストとしての朝鮮人を指す言葉となっていく。そして、1923年9月1日11時58分を迎えてしまうのだ。
 
 関東大震災が発生すると、東京に戒厳令が発令され、神奈川・千葉・埼玉へと範囲が拡大していく。9月3日、内務省は各府県知事に流言蜚語を肯定した電文を送ってしまうのだが、これが朝鮮人大量虐殺を正当化し、さらに加速させることになった。電文の内容は「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし」。この電文によって治安維持を目的に軍が戒厳出動し、朝鮮人の虐殺を先導することになった。
 
 首都圏の新聞社は大地震により発行能力を失ったのだが、その代わりに地方新聞がさらなるデマを拡散する。9月3日の号外「新愛知」には「井水用水路に毒薬を投じ群衆に爆弾を投じ各所の放火し不逞鮮人支那人盛んに跳梁す」、「新愛知」9月5日の号外には「不逞鮮人一千名と横浜で戦闘開始 歩兵一個小隊全滅か」「発電所を襲う鮮人」「屋根から屋根へと鮮人が放火して廻る」。被災地から遠ざかれば遠ざかるほど流言蜚語を増幅拡散した報道になっていった。
 しかしながら、そのデマによって実際に大虐殺されたのは、朝鮮半島出身の人たちであり、特に女性は性的暴行を受けた上で殺害され、街のいたるところに朝鮮人のご遺体が放置されていたというのが実情であった。

 さて、関東大震災の大混乱に乗じて、起こったのが亀戸事件や甘粕事件である。亀戸事件では社会主義者10名が警察に殺害された。甘粕事件では、無政府主義思想家の大杉栄と作家で内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥橘宗一(6歳)の3名が不意に憲兵隊特高課に連行されて、憲兵隊司令部で憲兵大尉)の甘粕正彦らによって扼殺され、遺体が井戸に遺棄された。
 橘宗一くんの墓は名古屋市の覚王山日泰寺墓地にある。宗一少年は当時6歳、アメリカ移民の貿易商橘惣三郎と大杉栄の妹のあやめの間に生まれた長男で、一家はアメリカに住んでいたが、関東大震災の直前に日本に帰国しており、9月16日は叔父にあたる大杉栄とその内縁の妻伊藤野枝とたまたま一緒にいただけだ。 墓碑の正面、上半分には横文字で二行にわたり「Mr. M.Tachibana/Born in Portland Org./12th 4.1917.USA」とある。下半分には縦四行で「吾人は 須らく愛に生べし 愛は神なればなり 橘 宗一」と彫られている。墓碑の背面に回ると、上半分にまずは縦八行で「宗一(八才)ハ 再渡日中東 京大震災ノ サイ大正十二年 (一九二三年)九月十六 日ノ夜大杉栄 野枝ト共ニ犬共ニ虐殺サル」との激しい文字が連なり、その下に横文字で「Build at 12th 4.1927 by S.Tachibana」と建立日が記されている。そして背面の下半分には縦六行で殺されたわが子への哀悼歌が彫られている。「なでし子を 夜半(よわ)の嵐に た折られて あやめもわかぬ ものとなりけり 橘 惣三郎」 この歌の「なでし子」は、花の「なでしこ」と「愛する子」との掛詞。「あやめもわかぬ」は、「はっきりと分らない」それほどの酷い状態だったということと、宗一の母の名前「あやめ」との掛詞である。最愛の我が子を理不尽にも失った無念さが碑文からにじみ出てい る。これまで何度か手を合わせる機会をいただいてきたが、墓前に立つたびに胸がつまる。

橘宗一少年の墓
墓の裏面には父の無念がにじみ出た歌が・・・

名古屋市の覚王山日泰寺には、関東大震災以降、太平洋戦争に至るまでに亡くなった朝鮮半島出身者を祀る「冤死同胞慰霊碑」があることを知った。本来なら昨日お参りすべきところだったのだが、今朝、自転車で日泰寺に行き、橘宗一くんのお墓と「冤死同胞慰霊碑」に手を合わせてきた。

冤死同胞慰霊碑

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