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「福祉」って「ふだんの くらしの しあわせ」

 平成28年の夏、相模原の障害者施設において、刃物を使った殺人としては、戦後最悪レベルの犠牲者数とみられる殺傷事件が起きた。この事件の犯人が、犯行前に「この世の中から障害者がいなくなればいい」とSNSにアップしていたことは、マスコミの報道によりよく知られている。この犯人は衆議院議長にも「自分の目標は重複障害者が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、安楽死させるべき」「重複障害者不幸を作ることしかできない」という手紙を送っていたことがわかっている。犯人は措置入院中にも医師に対して、「犯行の2週間前にヒトラーの思想が降りてきた」と話していることから、ナチスドイツの優生思想の影響を受けていることがわかる。ナチスは、ユダヤ人虐殺の前段として、「社会には無用で、生きるに値しない」との判断で、20万人もの障害者や結核等の重病患者を虐殺している。戦後、この優生思想に真っ向から否定する「ノーマライゼーション」という考え方が理論化された。地域の中で、障害や困難さを抱えた人たちと一緒に、お互いを助け合いながら暮らしていくのが正常な社会と定義し、生命に優劣はない、生きて存在するだけで価値がある等の当事者主権を絶対的価値とした。ノーマライゼーションは今や福祉の根本思想となり、現在の福祉教育に繋がっている。
 さて、問題なのは、前掲の殺傷事件の犯人のSNS投稿に対して、100万件以上の「いいね!」が付けられたことだ。このことは、障害がある人を差別し、偏見の目で見る感覚が根深く広がっていることを意味する。言い換えれば、無知から偏見・差別が生まれるのを無くすために、「福祉」の必要性について学ぶ機会をできるだけ多くしようとしてきた「福祉教育」そのものが否定されたこととならないか。ここ最近の政治家や識者の発言にも、人間として生まれてきた価値を生産性の名のもとに「労働力」「生殖力」に限定して測り、結果として差別を助長する社会状況を許してしまっているように感じる。
 犯人の職場が障害者施設という「福祉」の現場であったことは許されざる問題だ。子どもたちに「福祉」の大切さを教えることが私たち大人の責務だからだ。

 そもそも「福祉」という漢字の表す本当の意味は何だろうかと思い、調べてみたことがある。「福祉」は、中国最古の詩集「詩経」の中の、漢の朝廷学派のひとつ「韓学派」が残した『韓詩外伝 三』に出て来る言葉であり、哲学者の西周(にし あまね)が明治8年に発表した『人間三宝説』の中で初めて「福祉」という言葉を使っている。
 社会福祉という言葉が日本で一般的になったのは、昭和21年に日本国憲法が制定された際、第25条に以下のように「社会福祉」と言う言葉が使われたからだ。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」 明治初期は、慈善救済事業と呼ばれていたのが、明治末期に国が主導するようになると感化救済事業となり、大正9年前後に社会事業という言葉が使われるようになった。そして、昭和13年に社会福祉法の前身となる社会事業法が制定される。

 さて、次に「福祉」の意味についてである。「福」という文字は、幸福をはじめ多くの熟語に使われるものの、「祉」という文字の熟語は「福祉」以外に思いつかない。漢和辞典を調べてみると「祉」と文字の熟語は「福祉」しかなかった。ちなみに「福」には「幸い」という意味があり、「祉」には「祉い(さいわい)」という意味がある。「祉」という字の成り立ちは「神・祭り・運」などに関係する「ネ(示す偏)」と「止まる」という字の合体で「神がとどまる=幸福。めぐみ。」という意味を持った漢字である。神といえば「自然の恵み」であったり「社会全体の意識」のようにもとらえらるので、「祉」という字は個人的感情レベルの幸福ではなく、「相対的な幸福」を表現する言葉である。「福」は個人的な幸せを、「祉」は社会全体の幸せを指す言葉ということだ。

 小学生に「福祉とは何か」を教える際、どうしても高齢者や障害者にスポットが当たってしまい、福祉とは「困っている人を助けてあげること」と捉えられがちであった。これだと、どうしても他人事のように考えてしまうため、主体の転換を図り、自分事として福祉を捉えるべく、「ふくし」とは、「だんの らしの あわせ」と教えるようになったという。福祉が成立する基本には、憲法25条と13条がそれぞれ保障する「健康で文化的な最低限の生活(=生存権)」、「その人がその人らしく幸せに生きる権利(=幸福追求権)」があるということを短い単語で教え、福祉とは毎日の私たちの暮らしの中にあるものだと小学生に意識付けを図るためであった。
 
 ある先生が、自分の担任する5年生のクラスで、「ふくし」とは「ふだんの くらしの しあわせ」と教えた。その上で、「それでは、ふくしの反対の言葉は何でしょう?」という、大人でも訊かれたら答えに窮するような質問をした。そのとき、一人の男の子が手をあげ、「戦争」と答えた。「ふだんのくらしのしあわせ」の反対語として、「あたりまえがあたりまでなくなる生活」を考えての答えだったそうだ。この授業を参観していた学者は、生存権や幸福追求権と共に、「平和と民主主義」も福祉が成立する基礎要件だと再認識させられたと言う。これは福祉教育の好事例である。
 自分の周りで起きている諸問題を他人事ではなく「我が事」としてとらえ、その解決に直接寄与できなくても困難を抱える人々への共感力を高め、福祉の価値を学ぶことが、子どもの成長の糧になるのだ。共に生きる力を育む福祉教育のさらなる充実を強く感じる今日この頃である。

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