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我ある、ゆえに我思う

見出しを見て、誤りではないかと思った方は多いだろう。17世紀の哲学者ルネ・デカルトの言葉である「我思う、ゆえに我あり」とは異なる。「我思う」と「我あり」という関係性を簡潔に示すこの言葉には、人間が地球に生まれて人生を全うする中で、前提となる原理が一部含まれている。

僕はジブリ映画が好きでたまに見るのだが、プロデューサーの鈴木敏夫さんが、ジブリ美術館の公式YouTubeチャンネルで非常に興味深いことを仰っていた(休館中特別企画 動画日誌『鈴木敏夫~語る 第2話~』)。鈴木さんは昔、堀田善衛さんの『空の空なればこそ』という書籍を読んだとのこと。そしてコロナが起こった後に、ふと思い立ってその本を読み直した。そこには以下のようなことが書かれていた。

堀田善衛さんは、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉とそれに対するローマ教皇の話に着目した。当時のローマ教皇(パウロ2世)は、「我思う、ゆえに我あり」という考え方が世界を良くない方向へ導いていると述べたという。そこで堀田さんはデカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉のルーツを辿った。実はその言葉は13世紀の哲学者のパロディーであった。その言葉こそ「我ある、ゆえに我思う」である。加えてローマ教皇は、「我ある、ゆえに我思う」という考え方の時代では、世界は上手くいっていたとも述べていたとのこと。これに対して堀田さんは、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という考え方から、人間が傲慢になり様々なものを失っていったと主張している。(※鈴木さんのお話に沿って書いているので実際に書籍に書かれている内容とは正確さに欠ける部分があるかもしれません)

ここで、デカルトのこの言葉を、正確に把握しておこう。デカルトは著書『方法序説』でこの言葉を残した。当時デカルトはトマス・アクィナスの世界観に対して、懐疑主義からの脱却を目指した。疑うことを目的とするのではなく、方法論にすることを提示する。この「方法的懐疑」でデカルトは、ものごとを徹底的に疑った結果、疑いきれないものが不動の基準になると考えた。そしてあらゆることを疑っていくと、世界に確実な存在は何もないが、唯一すべてを疑っている自分自身の存在は確実であると結論付けた。それがすなわち、「我思う、ゆえに我ある」である。(出口治明『哲学と宗教全史』ダイヤモンド社, p.325 を参照)

このような文脈でデカルトはこの言葉を示した。したがって、デカルトの主張と上記の話は必ずしも一致するわけではない。それだけは明記しておく。

鈴木さんは、現代のコロナ下の状況と上記の内容を結び付け、人間がこれまでの言動を考え直すチャンスだと仰っている。ちなみにこの動画が公開されたのは2020年8月である。

コロナが日本に到来したのは2020年の1月であったと記憶している。それから1年半以上もの月日が流れた。僕自身はこれまでの期間、一人で考える時間を沢山設けることができた。外部の環境や情報から離れ、一人きりの空間で、今までの歩みを振り返り、自分自身のことに目を向けた。とても充実した時期であったように思う。

「我ある、ゆえに我思う」。この言葉は、私はこの宇宙に存在するという絶対的な真理を提示している。私が考えていようが何をしていようが、前提として「私」は存在しているということである。それは自然法則そのものであり、人間が自然の一部であることを如実に示している。

そのような人間の本質を、いつの間にか人類は忘れてしまった。自然を破壊し支配しようとする、自然との分裂の歴史を積み重ねた。その結果が、コロナという形で現れ、人類に警鐘を鳴らしている。

この1年半、そしてこれからも我々は考え続けなければならない。自然と人間との関係性を。人間のあるべき姿を。

2021年9月6日

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