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「表現」としての人生

人生や生きることについて、ここ数年間考え続けている。「生存」という側面では、最低限の生活をすることが可能になった現代社会において、そしてその状態がさらに推し進められるであろう未来の社会において、「生きる」とはどういうことなのか。「人生」とは何を示すのだろうか。

僕の場合、生きていることを実感するときは、自分の興味や関心のあること、好きなことを行っているときであり、充実感に浸っているときである。それはすなわち、情熱を持って行動している状態を指すのだが、最近は少し異なる側面から「生きる」ということを理解することができた。それは自分自身の「表現」として人生を過ごすということである。

僕にとって武道や格闘技の練習に励むこと、本を読むこと、文章を書くことなど日頃当たり前に行っていることは、僕自身が自分を表現するためのきっかけや表現そのものと捉えることができる。それらは理由を考えずとも行動してしまうこと、感情に駆られて実行してしまうものである。熱狂的な情熱のイメージとは少し落ち着いた印象ではあるが、そもそも「情熱」とはやろうと決めてやることではなく、自然と湧き出る感情からやらざるを得ないもののことを示すように思う。

そのように考えてみると、人生とは、与えられた時間を自分自身の表現で満たすことと言える。表現である以上は、それは無自覚に表れてしまうものであり、意識的に操作できるようなものではない。

「表現」を中立的な事象として捉えたときには、表現を通して、自分自身の特定の物事に対する前向きと後ろ向きの両方の感情が露になる。好きなことを行っているときには自ずとポジティブな振る舞いとなり、活力ある雰囲気をまとう。反対にそうでない場合には、そうでないものが立ち居振る舞いに現れる。それは仕方のないことであり、たとえ前向きでなかったとしても、それがあなたの表現であることに変わりはない。「表現」とはそういうものなのだ。

したがって、自分にとっての豊かな表現で人生を彩るには、「情熱」を選択することのほかない。自分が少しでも積極的に、前のめりに取り組めるもの、息を吸って吐くように行えることを選択するのだ。それは自分にとっては当たり前の行為であり、人によって千差万別だ。

僕にとって武道や格闘技、運動、読書、執筆などは程度の差こそあれ、どれも自分自身の「表現」である。誰かに強制されて行っていることではない。しばしば、しっかりと練習に励んでいることを褒められるが、それは自分の表現であるため、当然のことである。生きるために必要なことという意味では、食事や歯磨き、睡眠と同じことであり、それに充実感が加わったものと言えば分かりやすいだろうか。そのような「表現」の積み重ねこそが、人生そのものであると感じている。

2023年10月17日

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