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「成長」とは何か:社会的にカタチとされた能力や技術の追求

しばしば多くの教育機関や企業で、個人は「成長」を求められる。なぜ社会は個人に成長を促すのだろうか。そして、その成長は個人の人生を豊かにするのだろうか。

ここで言うところの成長とは、一般的には能力や技術の拡大を示す。出来ないことをできるようにすることや、その質を上げることだ。新しい能力や技術を身につけることは、しばしばその過程で苦痛を生み出すこともあれば、喜びを起こすこともある。ここで重要なことは、そのような能力や技術の習得は、本人が納得して求めるものなのかということだ。

社会に求められる能力や技術は、社会に役立つことを理由にしたものである。企業の場合には、利益につながるような能力を持った人間を採用する。したがって、そのような能力や技術には、既に活躍する場や環境が様々な組織や機関によって用意されており、ルールや制度が設けられている。それらの能力や技術は社会によってカタチとされているわけだ。そして、それらを得ることを人々は「成長」と称している。

すなわち、社会は人々に対して既存のゲームへの参加を促し、最適化することを求め、そして多くの人々はそのゲームに参加し、最適化能力を高める努力をする。そのことを「成長」と表現している。このような状況に対して、個人はその能力や技術の習得が、果たして本当に自身を幸せにするのかということを冷静に考える必要がある。

実際にそれを楽しめる者もいるだろう。しかし、ゲームに適応できず、能力や技術を身につけられない者も存在する。本来、能力や技術は相対的で目に見えないものである。しかし、その時々の社会状況において、特定の物差しでは役立つとされるものが、様々なルールや制度によってカタチとされる。その結果、能力や技術は具現化し、それを持つものは優秀と見なされる。

自分にとって関心のない能力や技術を身につけるときには、心に「摩擦」が生じる。それが苦痛を生む。また、たとえ身につけられたとしても、その能力や技術を長い時間をかけて磨いていくことを楽しみながら行う者には劣る。能力や技術は本来、楽しむ過程で身につくものである。楽しめないものにいくら精を出しても、自分の身にはならない。

無理をすることで生まれる「摩擦」は、やがて心を歪ませる。社会で求められるが故に頑張るが、本人にとっては全く魅力のない能力や技術であり、得られたとしても豊かに感じられない。それが虚無感へと繋がっていく。そのような歪んだ成長を人々は求められる。

これまでに社会の提示した生き方が、様々な諸制度の破綻により機能しなくなる時代において、自分の指針を持つことは非常に重要である。自分にとっての「成長」とは何なのか。何が自分にとっての豊かさであり、幸せであるのかということを個人が考え、体現していく時代であろう。

2023年10月29日

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