純粋な情熱はどこから来るのか
資本主義と持続可能性に関する本を読んでいる。長い間論争の続くテーマだ。あらゆる視点から議論をすることが可能なため、幅広い問題が取り上げられる。僕が関心のある対象は、それらの問題そのものというよりかは、資本主義のシステムを前向きに利用する者の心持ちだ。彼らは何を源泉に行動するのか。そして、資本主義というシステムとその持続可能性に関しては何を考えているのだろうか。
ある商店街にコーヒー屋があるとする。小さな規模のお店であり、商店街に通う常連客で十分に運営ができる。わざわざ広告を打って、多くのお客を獲得する必要性はない。
有名な番組で、そのコーヒー屋が取り上げられる。影響力のあるタレントがその味をおすすめしたこともあり、客数が激増する。店主はその状況を一時的なものだと思っていたが、思いのほか長い間客足が絶えない。
そのような状況において、店主は何を思うだろうか。その思考と感情が本質的な問題だ。店舗を十分に運営できている状態であったとしても、より多くの人にそのコーヒーの味を知ってもらいたいと思ったのであれば、何かしらの形で事業を拡大しようと試みるだろう。例えば、お店の規模を拡大する、店舗の数を増やす、コーヒーやちょっとした食べ物を持ち帰られるようにする等の施策が挙げられる。
これらの策を打とうとする場合、スタッフの雇用や人材育成、コーヒーの生産システムの整備などが必要になる。常連客にのみならず、多様なお客を視野に入れたメニューの見直しや価格設定を検討しなくてはならない。一方で、既存の経済規模で経営を続けるという選択肢もある。その場合、決して潤沢な利益を得られるわけではないが、商店街の常連客という共同体的な空間を維持することに注力する。
現在の社会は、資本主義のシステムが無限に広がっている。あらゆるテクノロジーがそれを促進する。しかし、それを活用するのかどうかは、店主の判断に委ねられている。そして、「判断」そのものの基準は、店主が自分のコーヒーをどのような在り方で社会に提供したいのか、人々に届けたいのかということの一点に尽きる。重要なことはその心持は何に裏付けられたものなのかということだ。それが当人の行動の源泉となる。
店主のその心持ちは、本来は純粋なものであるだろう。純粋なものである以上は、自己満足的な要素を第一に含み、社会への奉仕や貢献といった要素は二の次である。普段から自己満足を実現している場合は、社会への還元について、すぐに思考と行動が及ぶかもしれない。
世界で活躍する資本主義の恩恵を受けた人々、その先導者となる人々のはじめの一歩は我々一般人の行動と表面上は大差ない。しかし、大きく異なることは、心の奥底に秘められていた情熱に気が付いたことと、それを触発する機会を得たことだ。その純粋な情熱とは一体どんなものなのだろうか。そしてそれを表現した先にある資本主義と持続可能性について、彼らは何を思うのだろうか。
2022年11月15日
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