宇多田ヒカル「traveling」の歌詞ってすごいよねという話
宇多田ヒカルの「traveling」が綾鷹のCMで流れていたのを聞いて、唐突に語りたくなったので書いてみます。
ベストアルバム「SCIENCE FICTION」にRe-Recordingが収録されていますが、オリジナルは2001年に発売ということです(時が経つのがはやい)
前提:世界観について
紀里谷和明監督によるPVが印象的すぎて、その世界観で歌詞を読んでしまいがちになるのですが、この歌詞はPVとは別の世界観を持っていると思います。
シンプルに
金曜に仕事して、終わって、タクシー乗って、君に会いに行く。
というシチュエーションが切り取られている。
そんな、特に特別でもない日常を宇多田ヒカルのカメラで切り取ったらどう見えるのか、というのがこの歌詞の醍醐味。
さらにこの歌詞のすごいところは、理解しやすい日常描写から、宇多田ヒカルカメラの非日常まで、聴き手をシームレスに連れていってしまうところです。
小説におけるマジックリアリズム的手法。
感情が途切れることのないように、非日常まで多くの人を引っ張っていくというのはとても難しいものです。
それをさらりとやってしまう技巧(センス?)の高さがすごい。
それでは、その凄さをたどっていってみましょう。
Aパート
特に説明不要な日常描写。
あたりまえの描写かと思うけれども、この文字数での情報量がすごい。
ひとつはできごとの情報量。
少ない描写で、この人の1日がほぼわかる。
そしてもうひとつが、感情の情報量。
この人はワクワクしているわけです。このワクワクがあるから、この先この物語は大きく展開している。
でも、たとえば「ワクワク」とか「感情の高鳴り」とか書いても、この感覚は正確に伝わらない。
それに対してこの4行の美しいこと!
金曜の午後、仕事にも精が出ちゃって、達成感と自尊心バカ高い状態で、君に逢うためにタクシーに飛び乗ったときの感情、この感情の高さ、強さって半端ないぜ。
生きていて、感情が震えたとき、その感情を構成する要素を記憶しているからこそ、このように再生できるのだなと思います。
もうこれも言わずもがななんですが(閉めます)が素晴らしいです。
「仕事にも精が出る」の節は、最速で感情を作るために点描をしているわけです。
点描とはいえ臨場感はあるわけですが、この節に入って時計の速度がいきなり変わります。シーン描写になる。
そして聴き手の「タクシーの扉が閉まる音と風圧」みたいな肉体感覚をリズミカルに刺激してきます。
困ります、閉めます、もうこのときには歌詞の登場人物の中に、肉体感覚として入り込んでしまう。
Bパート
そして、このへんから魔法がかかりはじめる。
一気に魔法をかけても冷めちゃうので、かなり慎重です。
窓の外の風景なのか、それともタクシーが空を飛んでいるのか。
これ以上妄想を続けると冷めちゃうから、肉体感覚で接続してあげる。
君の隣り、その距離感、温度。
聴き手をあっちへこっちへと揺さぶって、韻を踏み、リズミカルに、まんまと魔法にかかってサビへ。
「春の夜の夢のごとし」や、このあとに出てくる「風の前の塵に同じ」は、平家物語ですね。
この歌詞を書くとき「日本語のリズムの美しさ」に興味があったから引用した、と話しているのを、昔テレビかなんかで見た気がします。
海外の大学で日本文学を学ぶ、という視点で、改めて日本語を見たときに気づいた美しさ、みたいなことを言っていた気が(記憶違いかもしれない)
ただ引用しているだけでなく、全編にわたって、この日本語のリズム感を現代語で再現しています(閉めます)。
サビ
サビの勢いに乗せて、これまで一人称視点だったカメラが、一人称を離れはじめます。
この時点では、もはやタクシーを客観的に見ている。この自在に移り変わっていく視点がこの歌詞の真骨頂です。
そのきっかけ「アスファルトを照らすよ」の言葉の絶妙さに舌を巻きます。
ここ、カメラを一人称から三人称にした価値がどこにあるかというと(ただの技巧ひけらかしではなく)、それでしか描けない感情を描くためだと思います。
ここに三人称カメラを一瞬介在させたことで「遠くなら何処へでも」の印象が、まるで変わってくるのです。
2000年代初頭の夜の心象風景
2000年代初頭の夜には、独特の心象風景がありました。
タナトス、というと大げさですが、言葉として意識しないままに、死や破壊衝動が通奏低音として響いているような感覚。
時が過ぎれば明日が来てしまうけれど、いまは小さな繭の中で、ふたりだけの世界の中にいたい。いまだけは、それを誰にも邪魔されたくない。
滅びゆく世界をどこか意識しながら、いまだけの一瞬の幸せを噛み締めていた。みんながそういう感覚を抱えていたのが、あの頃だったなと思います。
アスファルトを照らす、その光景を客観カメラで描くことで、繭の中と世界が相対化される。
強い言葉がなくても、飄々としたスタンスを保っていても、カメラの位置を自在に変化させることで時代の空気を確実に切り取ってしまうのです。
断片の歌詞の美しさ
この歌詞におけるカメラの多様性は、その位置だけではありません。
若い女性という主観カメラも持ち合わせていて、それを自在に扱う器用さも存分に発揮している。
最高に幸せで、さらなる幸せの予感すら感じていて、それでもどこか満たされなくて不安でいる。
だから走り続けている。
あの頃からずっと、きっと止まるのが怖くて、ちょっとだけ怖くて、走り続けているだけなのかもしれません。
2024年にtravelingが蘇ったことで、あの頃のことを思い出しました。
止まるのが怖い、それでも、いつかよりも少しは余裕のステップで進むことができているとよいのだけれど。
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