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「あれから1年」に寄せて

昨年12月、かつてのチームメートから連絡が来た
「甲子園で使ってるボールって、『選手権大会』のロゴが入ってたっけ?」

なんで、そんなことを聞いてきたのか
逆質問すると、どうやら「木内監督の遺品を整理していたら、2003年に優勝したときのウィニングボールっぽいものが、2球出てきた」らしい

記念品に疎すぎる、木内監督らしいエピソードだった
茨城・取手二高で全国制覇を果たした1984年当時のユニホームは「猫の布団になった」という逸話もある

ちなみに何年か前、自宅にお邪魔したとき、ウィニングボールは単三電池とともに飾られていた(写真)

2020年11月24日、木内監督が89歳で亡くなった
当時、埼玉西武ライオンズ担当だった私は、球団社長の取材を終えて帰宅し、日本シリーズを見るまで、うとうとしていたところだった

木内監督の体調が思わしくなく、入院したことは聞いていた
でもコロナ禍、お見舞いは控えていた

2003年夏の甲子園で優勝したメンバー間で、「ビデオメッセージを作ろう」という話になっていた
確か私はメットライフドームの前で、「来年のオリンピックで野球を担当するので、アドバイスお願いします」みたいなことを言ったと思う
実現しなかった

一報を受けてからは仕事柄、慌ただしい時間が過ぎていった
追悼記事を書き、確認し、デジタル版にいち早く配信され、翌日の朝刊に掲載された

日本シリーズは、1秒も目にしていない(後に、ソフトバンクが巨人を相手に継投でのノーヒットノーランをやりそうだったと知り、ウヒョーとなる)

そこから数日後にスケジュールされた通夜までの間に、大きな仕事があった
「侍ジャパン」の稲葉監督が、宮崎で行われていたフェニックスリーグで、日本ハムの監督として指揮を執るため、担当として取材に出向いた

そこで驚いたことが、一つある

高校の大先輩、金子誠さんにあいさつに行ったら、いつもはつっけんどんにされるのに、先方から「じいさん、いっちゃったね」と話しかけられたのだ
2人にしか分からない時間の共有って、こういうものなのかも、なんつって

「同時に、うちは朝日新聞を取ってるんだよ」とも言われた
まずい。朝刊には、私が書いた大きな「追悼記事」の脇に、島田直也さん、仁志敏久さん、金子誠さんという大先輩3人のコメントが、添えられるという作りだ
金子さんは宮崎遠征中だから、目にしていないことを願うばかり。。

そして通夜は、かつてのチームメートと再会し、先輩・後輩と旧交を温め、他校の先生方が来られているのを見て、木内監督の偉大さを再確認する機会でもあった

取材に来ていた水戸総局の後輩記者が、原稿を書き終えるのを待っていたところ、通夜の終わり際に、木内監督と対面させてもらった

私の高校時代から常総学院を取材していた先輩記者と、入れさせてもらった「別れ花」。中にいた木内監督は、私が知っている姿より、ひとまわりも、ふたまわりも、小さかった

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