傲慢力を高める重要性について
って、タイトルを見て、思いました??笑
いやー、でも真面目に、すごい大事なことだと最近しみじみ思っていることなのです。もしかしたら、突き抜けるきっかけみたいな話になるかもしれないので、気になった方は、ぜひ最後まで読んでみて下さい^^
傲慢が気になりだしたきっかけ
そもそもなんで傲慢について考えようと思ったかといえば、彼女の影響です。彼女は、よく言葉の意味を考えている人なんですよね。1日に何度も、「傲慢って何??」って呟いていたり、質問されていたりしたことで、傲慢について意識が向いたわけです。
で、それは彼女のテーマであるわけですが、自分にとっても、同じように大事だなあって、深まってきたのです。
人の影響で考えるようになったり、興味を持ったり、はじめたり、そういうことって人生の中でありますよね。ひとりだけでは至らないところに運んでくれるのが関係性。
ひとりでは、どうしても視野が狭くなったり、大事なことほど見えなかったりするので、こういう偶発性的なトピックって、あえて大切にするといいよなあ、と思ったりするのです。
傲慢とは何か?
「傲慢」とは、そもそも何でしょうか。検索してみると、こんな風に出てきました。
ふむふむ、なるほど。確かに、傲慢ってこういう意味なイメージがあります。そして、ぼくは、そういう人がとても嫌いだし、近寄らないようにしているなあ、って思いました。
そして、それはつまり、自分の傲慢性を否定しているっていう意味で、極力、そうならないようにしようと、気をつけすぎるくらい、気をつけているところがあります。
でも、あるセミナーで講師の方が、傲慢の定義をこう伝えてくれたことがあったんですね。
これでいうと、ぼくは一般的な意味での傲慢を気にしすぎるあまり、過小評価しがちなところがあるんです。この定義でいうと、ぼくも傲慢にあたることになる。
はて、、、傲慢って何だろう・・・???
言い換えると「本来の価値と、自己認識がズレている」ことが傲慢になるということなのでしょう。
傲慢とは悪なのか
「本来の価値と、自己認識がズレている」ということが意味することはなんでしょうか。傲慢って悪い言葉のように聞こえるけれど、それはやっぱり、悪い意味なんでしょうか。
過大評価するとはどういうことだろうか
ぼくが嫌いなのは、過大評価です。大して実力もない人が、自分を過大評価している姿をみると、なんて恥ずかしいんだろう、って思うのです。
だから、ぼくは極力謙虚であろう、と生きてきました。結果を出しても、それよりすごい人は沢山いるし、別にすごくない、って自己評価をし続けてきたのです。
本物なら、別に威張らなくたって、マウントかけなくても本物であることは伝わる。それこそが、理想だなあ、って思ったりするんです。
と、ここまで書いてみて、ぼくのなかでは、過大評価する意味での傲慢って、マウントをかけることとセットなイメージになっていることに気が付きました。ぼくはマウントが嫌いなのです。だとしたら、マウントのない傲慢だったらいいのかな?
いや、でも過大評価はそれだけで、やはり迷惑というか、大それたことをいって、実際にそれを成せないのであれば、周りの期待を裏切ることになります。それによって、計画が崩れたりすることもあるかもしれません。ビジネスだったら、詐欺と言ってもいいかもしれない。
でも、一方で、大きなことを言って、実際にそれを成してしまう人もいる。大きなことを言うから感情が盛り上がって、人も期待して、それが後押しになって、現実を推し進める場合もある。それだったら、大きなことを言っていても、傲慢ではない、ということですよね。
つまり、傲慢とは嘘。信頼を裏切ることになるということ。だから、関係性にとって悪影響にもなるし、傲慢はなおすに越したことはない、と言えるかもしれません。
過小評価するとはどういうことだろうか
では、過小評価することとは何を意味するのでしょう。
過小評価すると、力は持っているのに、発揮されないということになります。ちょっとイメージしやすくするために、RPGの世界でシュミレーションしてみましょうか。
こんな勇者がいたとしたら、どうでしょう。神様はがっかりですね。そして、世界にとって、損失です。
これは物語の話ですが、ぼくはこういう世界観って割と本当なんじゃないかと思っているんです。あらゆる才能は、世界のために与えられている。分かち合うために、与えられていると思っているんですね。
だから、才能がある人がそれを自覚しない、発揮しないということは、世界の損失だと思うんです。リーダーにはリーダーの責任がある、ということです。
ちょっと、責任みたいな論理はぼくは好きじゃないですけど、幸せという観点でも、言えることがあります。才能は、発揮すればするほど、本人の満足感に繫がる。幸せに繋がれるようなのです。
才能があるのに使えていないと、どこか萎れてくるといいますか、どこか生きている心地がしないものなんです。与えられたものは、活用することで満足するようになっている。これが、命のメカニズムなんですよね、きっと。
見えにくいけれど、過小評価も世界に損失を与えている。それに、周りの人が期待しているのに、それを裏切ることになる。いつしか、期待すらしなくなる。そういう意味では、やはり過小評価の方も、人間関係的に悪い影響をもたらしているのかもしれませんね。
傲慢力を高めるってどういうこと?
そんな前提を語ったうえで、傲慢力を高める、という話をこれからしていきたいと思います。どういうこと、ってなりますよね。でも、ご縁ですので聞いてください。^^
突然ですが、偉大な人っているじゃないですか。例えば、孫正義さん。若いころって、絶対傲慢に見えていたし、人も離れていったことがあると思うんですよ。
創業当初で若い時に、数人の社員に対して「何兆円も稼ぐ会社になる!!!」って語っていたそうなんですね。当時の現状からすると、周りからは、ものすごい傲慢に見えるわけじゃないですか。過大評価の方の傲慢ですね。
でも、今となっては、孫正義さんって、偉大な人なわけです。今この話を聞いたら、若いころから偉大だったんだなあって話になるわけじゃないですか。でも、当時その瞬間は、傲慢でしかない、頭のおかしな人に見えていたわけです。
傲慢かどうかは、本当のところ分からない
つまり、何がいいたいかというと、偉大な人って、大抵若い頃やうまくいっていない時は傲慢にしか見えないのではないか、ということなのです。
ケンタッキーフライドチキンのカーネルサンダースさんも、今は有名人だけど、フランチャイズを思いついてチキンのレシピを売ろうとしていた時、めちゃくちゃ断られているんですよね。頭のおかしな人、って思われていた。傲慢ですよね。でも、成してしまったら、偉大な人なんです。
ということは、偉大になっていく人、大きくなっていく人というのは、多くの人から傲慢な人って見えるわけです。今だけでは傲慢なのか、偉大なのかを判断することはできない。時間軸を伸ばした時に、本当のところを判断できることなんですよね。
そう思った方もいるでしょう。でも、そういう人が、10年20年、あらゆる失敗を繰り返した末に見出した何かで、偉大なことを成し遂げるかもしれないわけです。そしたら、すべての失敗は、英雄譚になる。
つまり、傲慢なのか偉大なのかは、死ぬまで判断できない、ということだと思うのです。
傲慢なくらいでちょうどいい
だとしたら、ぼくは傲慢であろう、って思ったんです。すこしくらい傲慢に思われるくらいがちょうどいい。大きなことをいって恥ずかしいと誰かに思われる勇気を持てる人でありたい。
これまで、過小評価してきたけど、最近、いい加減自分を認めてあげたいって気持ちになってきたんですね。めちゃくちゃ頑張ってきたじゃないかと。いい加減認めてあげようと。そして、それを社会に発揮していきたいじゃないか、と。
だから、傲慢力をあげていきたいなって。
大きなことをいって、まったまたーーーと思われる機会を増やしていこうと。そして、それを本気で、実現できる人に成長していきたい。
「傲慢ですね。」って言われたら「そう、傲慢なんです。」って、笑って爽やかに言えるようになりたいと。
死ぬまで分からないけど、自分だけは、それを成す人だと自分を信じてあげたい。その結果、実現できなくてただの傲慢だったとしても、それはそれでいい。
人生は、自己納得感。自分が納得できる生き方をするのが、すべてだと思うから。
おわりに
ぼくは、悪者をつくりたくないっていうのがあって、傲慢っていう言葉を悪者にするのも、嫌だなあって思うんですね。
だから、傲慢に光を当てられてよかったです。
どうですか、一緒に、傲慢力を磨いてみませんか?^^
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