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バイバイ契約。

夫婦で司法書士をされている方が家で仕事の話をしていたときの話。
近くで両親が話すのを聞いていた息子さんが言ったそうだ。
「さっきからずっと話してるさよならの契約っていうのはなんなの?」
と。

一休さんの出てくるドコモのCMを見ながら元気よく
「いっきゅーぱっ!」
と歌っている子に
「本当の歌詞は一休さんなんだよ」
と教えてあげたらこんなことを言われたことがある。
「一休さん知ってる!どんだけ~の人だよね?」

ああ、なんて素敵なんだろう。
無邪気に飛び出す子供たちの言葉の美しさよ。
私たちはもう大人で、バイバイ契約はさよならとは関係のない売買契約だということを知っているし、一休さんがIKKOさんとは別人だということも知っている。
だからこそ。
彼らから飛び出した言葉が時にとても輝いて見えるときがある。
キラキラと美しく。

願わくば子供たちの頭に飛び込んで、そこにある世界を全身で感じてみたいと思う。
凝り固まってしまった頭では想像もできない世界。
キラキラが溢れた刺激的な世界で、もしかしたら私たちは立っていることさえも出来ないかもしれない。

それなのにそんなキラキラが子供の頭の中からこぼれて目の前に来たときに、私たち大人は思わず「それは違うよ」と言ってしまう。
彼らのためだからという大義名分のもとで、私たちが正しいと思っている答えを半ば強制的に押し付ける。
正しいことを教えるのは大人の責務。
それはもちろん大切なことなのだろうけど。

けれども私たちが言葉を投げかけたその瞬間に、せっかくのキラキラが消えるように感じるのはどうしてだろう。
無邪気に飛び出したキラキラの光を失わせる大人の言葉たち。
大人にとっての正しいこと。
それが子供にとっても同様に正しいことなのだと私たちは本当に自信を持って言えるのだろうか。
言っていいのだろうか。

本当に私たちがやらなければならないことは子供たちに「それは間違っている」ということではない。
子供たちの発したキラキラをまずはしっかり受け止めてみることのはずだ。
それはつまり疑うことだ。私たちが思っている正しいことを疑うこと。
私たちの今持っている正しいことが彼らの育った未来でも正しいことだという保証はどこにも無い。
そして仮に間違っていたとしても責任を取ることなんてできやしない。

もちろん自分が正しいと思うことを信じて自分自身が進んでいくことは大切なことだ。
だからといって、子供たちにまで全部押し付ける必要はきっとない。
そんなことばかり続けていたら私たちが彼らに残してしまうのはきっと右へならえの未来。
本当ならばそのキラキラをもっと感じていたいはずじゃないか。
あちこちがキラキラしている世界が私たちだって見たいじゃないか。
であればせめて疑おう。
押し付けるばかりじゃなくてまずは私たち自身が正しいことを疑おう。
今ある正しいことを少しも疑えない大人たちからいくら
「明るい未来を切り開くのは君たちだ」
という言葉を伝えたところでそれは虚しく響くだけのように思えるのだ。


バイバイ契約。
本当にあったとしたら一体どんな契約なんだろう。
考えてみても後腐れなく別れる契約なのかなとか財産分与だろうなとかキラキラとは無縁のことばかりが浮かんでくる。
だからいつか彼に会うことができたら聞いてみたいと思っている。
一体どんな契約だと思って話を聞いていたのかを。
そのときどんなキラキラが飛び出してくるのだろうかと、想像するだけでなんだかわくわくしてくるのだ。

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