マナーは本当に守らなければいけないのか

「○○はマナーだよ」

「○○するなんてマナーが悪い」

そんな言葉はよく聞く。だが、マナーとは何か深く考えたことがある人はいないのではないだろうか。
似たような言葉で、ルールやエチケットなどもあるが、自分を含め、それらのニュアンスの違いを正確に理解して発言している人は少ないのではないだろうか。

まず、言葉の定義について確認しよう。
マナーとは、「対人関係において守った方が良いとされる礼儀作法」のことである。エチケットと言うと、身だしなみなどマナーの中でも限定的な意味合いとなる。
これに対して、ルールは「守らなければならない規則」などを指す。

守らなければならないわけではないが、守ってほしいと思うものがマナー。
守らなければならず、守らなかった場合に罰則があることもあるのがルールである。

感覚的にはルールの方が理解しやすいかと思う。ルールというのは、明文化されている場合が多く、容易に知り得るものである。
最も一般的なルールは法律だろう。各国や州ごとに制定し、周知されている。もし知らなくても違反すれば罰せられることになる。

これに対してマナーは、時代や国といった規模ではなく、身を置く環境ごとに常に変化するものである。

  • 電車の中でカレーうどんを食べていたらおそらくマナー違反だが、駅のホームのうどん屋で食べるなら問題ない。

  • ひと回り年上の取引先の常務にタメ語で話しかけたらビジネスマナーに反すると言われるだろうが、それが配偶者で場所が自宅であれば至って自然な夫婦の会話である。

  • 鶏のから揚げに無断でレモンをかけたら怒る人がいるが、その場にいる全員が鶏のから揚げにはレモンをかけるのが好きなら誰も怒らない。

  • 子どもが日曜日の昼12時に公園で鬼ごっこをして騒いでいても苦情を言う人はいないだろうが、それが夜中の12時であれば話は変わる。

ほんの一歩の違いでマナーは変わるし、一歩も動かなくても周囲の状況が変わるだけでマナーは変わってしまう。マナーは、曖昧模糊として、誰にも正確な答えがわからないものである。
そして、誰にも正解がわからないにも関わらず、違反をすれば叱責される。人によっては顔を真っ赤にして激昂することもある。「夜中に騒いでんじゃねぇ!うるせえぞ!」てな感じで。

「マナーを守れ!」と言われても、明確になっていないものをどう順守すれば良いのだろうか。これは、20世紀後半からよく使われるようになった「空気を読め!」と似たような印象を受ける。「空気」、つまり「その場の全員の意図や雰囲気」を「読んで」(汲んで)行動しろという意味の発言であるが、発言者がその場の全員の意思を確認したうえでこの発言をしているのは見たことがない。あったとしても「お前もそう思うよな!」など、意思確認に必要な匿名性や公平性等の条件を欠いている。
これは、集団の総意であるかのような言い方をして、自己の責任を集団に転嫁しながら、結局は「俺(発言者)の思い通りにしろ」と言っているに等しいのである。

会社や大学などの飲み会の場で始まる「一気飲み」のコール。それに従わなければ「空気が読めない」というレッテルを張られてしまう。だが、20人いるその飲み会の中で、“その人に一気飲みさせたい”と思っている人はおそらく一部、概ね3~5人程度の小さな集団である。
「一気飲み」を渋る若者に、まるで20人の総意であるかのように「空気を読めよ」と言い放つ小集団。結果として若者は急性アルコール中毒になって搬送されることになる。
「空気を読んだ」結果が自分の体調を崩し、場合によっては命の危険すら発生する状況に至ったのである。(この場合、飲ませた人達も過失致傷などに該当する可能性はある。)
客観的に見れば、空気を読まない人に問題があるのではなく、自分達の主張を「空気」という言葉を使って多数派の主張であると錯覚させ、若者から冷静な判断力を奪って一気飲みせざるを得ない状況を作り出した小集団に属する人達に問題があるのは明白である。
こういった経験、全く同じものでなくとも近しい経験がある人は多いのではないかと思う。

「マナー違反だ!」と指摘するのもこれと同様で、「マナー」という客観的な守る“べき”規範を提示して自分の発言を正当化しようとしているが、その実は「私は不快だ」と言っているに過ぎない。主観的な意見を客観的な言い回しに変更することで、自己の正当性を高めるとともに、責任を分散し、属するコミュニティにおける自身の相対的な優位を築こうとしている。

メジャーリーグには「暗黙のルール」というものがある。ルールという名前ではあるが、ルールブックにも書かれていないため、前述の定義に当てはめるならマナーである。
例えば、「大量点差でリードしている状態から盗塁をしてはいけない」というものがある。個人的な感覚で言えば、どんな点差であっても全力でプレーするのが相手への礼儀だと思うが、メジャーリーグの選手にとって不快に感じられるのだろう。違反すると故意のデッドボールなどの報復を受けることになる。デッドボールによる進塁というルール上の罰則を受けてでもマナー違反への報復が優先される。

違反に対して叱責や死球などの報復行為がなされるにも関わらず「マナー違反だ」と宣う側にマナーの存在を証明する義務があるわけではない。言われた側としても「そんなマナーはない」と言い返すための根拠もない。マナーが明確でない限りにおいて、マナーとは発言者優位の一方的な言葉である。

マナーとは、あくまで私(発言者)が主観として不快に感じることを表す単語に過ぎない。
また、空気やマナーに限らず、主観的な意見と客観的な正当性を適切に区分できず、主観的意見に客観性を持たせて発言する人は少なくない。

ここまで、マナーに対する否定的な文章を書いてきたが、マナーは悪い影響ばかりを与えるわけではない。お互いが共通認識として持ち、お互いが守ろうとする限りにおいては、非常に良い働きをする。

  • 高級飲食店において、大声で騒ぐことを禁止するなど、店内で守るべきことを明文化し、入口やウェブ上に掲示する。

  • 夫婦間で、家事や子育ての分担を相談して明確にし、負担の分散を図る。

やる“べき”ことをお互いが承知できる状況を事前に準備することで、少しでも多くの人が快適に感じられる環境を作り出すことができる。
明文化する場合に特に顕著ではあるが、やるべきことをやらなければならないことに変化させていることから、これはマナーをルールに昇華させていると言って良いだろう。必要な対象すべてに覚知できる状態となれば、それはもはや単なるマナーではないと言える。

「映画館には他所から食べ物を持ち込まないでください」というのは聞いたことがあるだろう。これも、元々は館内で飲食物を販売しているにも関わらず、他所から持ち込むというマナー違反を咎め、館内の飲食物の売り上げを確保しようという意図があったものと推察される。
それが、館内掲示や上映前のアナウンスなど様々なところで明示され、多くの人が知る実質的なルールと化している。

もちろん事前に周知できない場合もあるだろう。その場合であっても、マナーというのは発言者優位の言葉であり、客観的な根拠が提示できないあやふやな感覚を他者に押し付けるべきではないだろう。
特に、初めてその場に来た人はマナーがあったとしても知らない可能性が高いと考える必要がある。

例えば、駅のホームで電車を待つ時など、待機の際は整列するのは日本のマナーであるが、馴染みのない海外からの旅行者は並ばずに横から割り込むことがある。特にアジア系の旅行者にこの傾向を多く感じる。
それに対して「勝手に割り込んでくるな!」と怒鳴りつける人や、言葉にはしないまでも不快感を顔に出している人を見かける。
彼らに悪意があるのではない。単純に知らないのだ。並んでいるのが見えてもそれがなぜ並んでいるのか、どうしてその行動に至るのか理解できていないだけだ。
だとしたら、先ずは「日本では、喧嘩や混乱を避けるために到着した順番どおりに整列して乗車するから、横から割り込んではいけない」と伝えるべきだと思う。現代には翻訳アプリ等もあるし、身振り手振りでもある程度は伝達できるだろう。

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない」
-アルベルト・アインシュタイン

自分が常識だと思っていること(マナー)でも、それが万人にとっての常識であるとは限らない。むしろ、万人に共通する常識なんてほとんど存在しないと考えた方がより良い人間関係を築ける可能性が高い。
マナー違反に怒るのではなく、マナーを知らない人に対して何故そういった行動が必要なのかわかりやすく教えてあげられるようになるべきだと思う。マナーを守っていない人がいても、悪意を持って違反しているとは限らない。相手の事情や考えを確認してから自分の主張を伝えて初めて対等なコミュニケーションと言える。

マナーを押し付けるのが一番のマナー違反なのかもしれない。

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