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書かないと本当に書かなくなりますね。

日記と称しているのに一か月も書いてないので、もう何書いていたかも覚えてないですね。書かなくなる理由って至極単純で面倒くさいに抗えないんですよね。自分の場合。この『文章を書く』という行為って年々人口が減ってると思うんですが実際どうなんですかね?視点を自分事から大局的に見たら、一昔前はネットで表現する主流はブログだったから結構なひとが文章を日常的に書いてたと思います。大体20年前くらいですかね?

しかし時代が進んで現代では当時とは比べものにならない程スマホのカメラが高性能になり大量のデータをwebにアップロードするのも簡易になるにつれて少なくともブログ自体の盛り上がりはなくなりブログに注力していた人たちも動画に移行した印象がありますが、当然ながらいまでもブログを日常的に書いてるひともいれば専業ライターのひともいるので文章を書くという行為自体が廃れたと考えるのは早計なのかなともおもえます。

いま軽くググったら日本のブロガーの総人口は数百万人いたのですべてのwebや紙媒体を足したら日常的に文章を書いてる人の総計は1000万人程度いてもおかしくないだろうから大体日本の人口の1割程度が日常的に書いてると考えても大きなズレはないと思えてくるので、やっぱり文章を書くという行為は少なくないひとにとって頻度に差はあれど生活に必須な行為と考えるのが妥当でしょう。

さて、この『文章を書く』という行為について折角なんで少し考えてみたいと思います。おそらくnoteにいる人たちは普段から文章を書いているひとが大半でしょうが、毎日サボらずにある程度人目に耐えれられ読まれる文章を書けている人となると一気に数は減るとおもいます。なぜ続けて書ける人と書けない人が出るのでしょうか?そしてひとはなぜ『書く』のでしょうか。悩ましいです。

少し視点を変えて書くに似てる行為でいえば『話す』なわけですが、圧倒的に書くほうが負荷が重く感じます。(あくまで自分の場合)。このふたつの共通点といえば、ひとに自分の思いや連絡事項を伝えるわけですが、速さも気軽さも圧倒的に話す方が自分は楽です。(気心が知れてる場合は)しかし話すほうが楽だし気は晴れるのに話すでは解消できない欲があり自分は書きたい欲もあります。まったく書いてなかった癖に恥ずかしいですが。

なぜ自分に書きたい欲があるかと言えば、話してる時には自分が何を思ってるかって気づけない場合が多いですし何を話したか忘れるんですよね。よほど好きな女性や緊張する目上の人と話したことって割と何を話したかって覚えてたりするんですけど、飲み会や電話で長話しをした話って自分はまったく覚えてないんですよね。というか覚えてるひとが相当稀な気がします。

翻って文章を書くって自分にとって残しておきたい出来事や方法論、自分が伝えたいことを相手にどうやったらうまく伝わるかを考えるので発見があったり、無理やりネタを作ろうとあたまを捏ねくり回したり情報をかき集めるので思考が広がってる感覚があり普段目を通さない記事や本にも手が伸びるので、人間としての能力が広がってる感覚があるんですよね。

それゆえ、自分はこの『書く』という行為はなるべく続けていきたい気持ちがあるのですが、なかなか継続ができません。突然ですが、書いてて気づいたのですが自分は「継続が難しい」と感じてるんですね。継続が難しいなんてみんな知ってるし当然なのですが時間を取って筆を執ることにより『何を継続して、どうやって継続しようか?』という考えが芽生えたので、やはり『書く』という行為はメタ目線が持て思考もクリアになります。

では簡単にまとめます。『書く』という行為は情報の伝達は話すに比べ遅行であるが自分に対して気づきを与えてくれぼんやりと考えていたことが鮮明になる彫刻のような行為ということがわかりました。あと、個人的には陰キャラは友達が少ないのでやっぱり文章を書いたほうがいいと思いました。

ひとはひとに対して何でもかんでも話したいことを話すと、嫌われるのでただでさえ少ない友達が減りますので。しかし、文章であればだれも相槌を打たないので自分のペースで好きなことを好きなだけ書けます。(読み手がつくかはべつにして)

とりあえず、久しぶりに書いたので終わります。また出来る限り書けるようにしたいと考えてます。というより書く書かないよりもどうしたら継続できるかに意識を持っていた方がよさそう。おわり。

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