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-雑談-古典学習を考える③(私の結論)

「“”手に“”論文を書く」人、“勝小”です。
(当noteの前提・諸注意等については、こちらの投稿をご参照ください。)

私の結論

・古典に限らず幅広い科目/分野を選択科目にする
(必修科目の設定は最低限にする)

・既存のカリキュラム以外の科目/分野も適宜選択科目に追加する
(例えば、第二外国語/プログラミング/会計学/法学/投資理論など)

上記が、私の考え(意見)です。その理由としては、

・学習時間に制約があるため、高等教育に有益な科目/分野をすべて取り入れることは出来ず、学習科目/分野の取捨選択は避けられない

・高等教育における最適な学習カリキュラムは、ひとつ(~数種類)に絞れるものではない
(既存のカリキュラムは、ひとつの選択肢ではあるが唯一絶対のものとは言い切れないため、各生徒ごとに自由度の高いカリキュラム設定が望ましい)

と、考えています。

実現のために必要なこと

(高校の現状をそこまで理解しているわけではないですが、)
上記の実現は、既存の高校の枠組みでは実現困難であると思います。

・高校の授業は所属する生徒向けのみに行われる
・高校の授業はその高校に所属する教員により行われる

この辺りが、原則として行われていると思います。
(認識相違あればすみません)

その原則を外し、

・各高校が設定するカリキュラム(授業科目/分野)すべてを所属する教員のみで担当する必要がない
(学校側は多くの教員を抱える負担が軽減し、教員側は指導可能な科目/分野を限定することで負担が軽減する可能性がある)

・高校生の段階で、特定の専門分野に対する強い興味や才能がある生徒に対して、的確な学習環境を提供できる可能性がある

といったメリットを享受できると良いのではと考えます。

雑03.古典08

その実現案のひとつとして、前回②で
「自由度の高い選択制授業」×「複数高校間でのネットワーク授業」
を提案しました。

※詳細は前回②記事を参照頂ければと思いますが、概要図を再掲します。

雑03.古典05

(上図は「午前」「午後」で分けていますが、「曜日」で分けることも考えられます。)

雑03.古典06

雑03.古典07

上記が実現した場合の“こてほん”

おそらく古典に限らず、数学(特に数ⅢCの分野?)や理科も必修ではなく、選択科目or選択必修科目(例えば、物理・化学・生物・地学から1~2科目は必ず選択するなど)になる可能性があると言えます。

そうなると、「古典学習の必要性」という論点では議論はされないと思います。学びたいと思う生徒が学びたいだけ学べるのであれば、基本的なところでは論争は起こらないとも思います。

あるとすれば、「選択科目間での生徒の奪い合い」でしょうか。
仮に、古典以外の学習分野において“必修”であったことで高みの見物をしていたり、古典分野を敵対視(?)していた科目/分野の陣営が担当科目/分野の魅力発信に慌てて取り組む未来もあるかもしれません。
(適度な範囲であれば、その競争は魅力ある教育品質の向上に寄与するのではと私は考えています。)

(仮に)古典が選ばれない状況に陥った場合

前回①でも述べた通り、私は「高校における古典学習者ゼロは困るが、全員でなくても良いのでは」というズルい立場です。

選択制にすることに賛成ですが、選択者がゼロになる世の中は望んでいません。(古典という財産を手放してしまうのは惜しいと思う)

こてほんの主催者の方(?)がまとめていたアンケートを見る限りは、一定程度は古典が好きだという結果が出ていますので、全く選ばれないということはないと想像しています。

ただ…念のため、古典学習選択者が激減する見通しとなった際の対策(案)を考えておきました。

・国立大学の入試科目とする(現状と変わらず?)(*1)
・公務員試験の試験科目とする(*1)(*2)
 (ただし、上記2点は留学生・外国人枠を除く)
・受給要件に「古典学習」が含まれる奨学金を“新設”する
・“漢字検定”のような検定制度を立ち上げる

<趣旨>
(*1)国家予算等の公的な資金が拠出される組織・団体に属する者に対して、「日本の古来の文化財」を守るために、一定の協力を要請する。
(*2)インバウンドに期待した観光立国を目指す方針を掲げているのであれば、公務員として古典に対する知識・教養はあるほうが望ましいのではないか。

生徒の将来を狭める可能性に対する私見

カリキュラム設計の自由度を高める大きな弊害の一つに、

生徒に選択肢の幅を与えているようで、実際には将来取り得る選択肢を狭める可能性(危険性)がある

という懸念が挙げられます。
その点について「高校卒業後でも、卒業校等が提供するオンライン講義を有償で受講可能とする」などの措置をとることで、一定程度回避できるのではないかと考えています。

さらにこの措置には、

・社会に出てから「●●を学んでおけばよかった」と考える大人は多いため、進路選択に対する後悔の有無に関わらず、需要はあるはず

・高校側も在学生以外からの収益獲得の機会が得られ、財務面で学校運営を安定させることに寄与する

という利点もあるかもしれません。

成人年齢引き下げ影響
また、酷な話ではありますが、「18歳から成人」とする民法改正がなされている状況においては、卒業時に成人となる生徒が多くなります。従って、卒業後に成人として扱われることを考えれば、在校中に将来の方向性に繋がる決断を生徒に求めることは、避けられないことなのかもしれません。

将来の働き方意識への影響
話は少し変わりますが、「精勤賞」が問題視される理由の一つに「休むことが悪であることを生徒・児童に刷り込むという悪影響がある」が挙げられているようです。精勤賞そのものの是非については今回は触れませんが、「学校」という教育制度が、将来の「働き方意識」に一定程度の影響を与えている可能性はあると思います。

リモートワークがもてはやされ始めた現状に将来的に対応する方法として、リモート授業の活用が考えられます。すなわち、積極的にリモート授業等を活用することを通じて、将来的に“リモート環境”でも“ワーク”できる人材を社会に送り出す必要があるのではないかと思います。

Generalist vs Specialist
従来型のカリキュラム設計は「極力広く満遍なく」という印象があり、「ジェネラリスト(Generalist)」を養成する一面を持っているのではないかと考えています。それは「中流」「総合職」「ホワイトカラー」という属性と親和性が高いと感じます。

一方で、特定分野に特化してフリーランスとして活躍したり、先進的な研究開発に従事したり、あるいは芸術分野で力を発揮する…など、「スペシャリスト(Specialist)」が求められる場面も少なくないと思います。
そのため、従来のカリキュラム設計も選択肢のひとつとして残しつつ、その他のカリキュラム設計にも柔軟に対応できることが理想的な教育環境と考えることもできるのではないでしょうか。
(もちろん、先に述べているように選択を間違えたとしても、柔軟に学びなおせる仕組みを用意することが必要不可欠であると考えています。)

おまけ(次回“こてほん”での希望)

個人的に興味のある事項が2点浮かんでいます。

①大学入試で試験科目としている理由
→大学側(入試担当者)の意見(出題の意図)が知りたい。

②古典教育の題材の選択理由
→教科書編集者(?)の意見(題材選択理由)が知りたい。

この辺りにも「古典学習の必要性」に関する議論のパーツが眠っているのではないかと思った次第です。

※そもそも教育関係者でもなく、勝手に考えただけのものですので、これまでの議論で怒りや不快感を抱いた方に対しては、先にお詫びをしておきます。“素人の戯言”としてご容赦頂ければ幸いです。
(適度な批判はありがたく頂戴致します。)

参考文献

【こてほんプロジェクト( @icuhskotehon )さんの各種配信等】
https://twitter.com/icuhskotehon


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