京極杞陽はビールをのむ
「大衆にちがひなきわれビールのむ」(京極杞陽)という俳句がある。
私は大衆に違いないと認めるのは、しんどい。けれどそれは楽になることでもある。
四十手前になってもなお何者にもなれておらず、しかし自分が何者かであるような錯覚を捨て去ることもできていない私にとって、とても響く句だ。
とても響く、と書いたけれど、それはあくまでこちらの勝手であって、句自体は強烈な情緒を醸しているわけではない。
自嘲的とはいえ、ニヒリズムやペシミズムと読み取るにはどうも明るい。
この句の眼目はむしろ「平熱さ」であり、それでいて寂しさや清々しさが漂ってくる、というところに、凄み・魅力があるのではないだろうか。
その裏付け、と言えるかどうかわからないけれど、私が強調したいのは「杞陽はこの句以外でも、とにかくビールをのんでいる」ということだ。
ゆきずりのサラダをたべてビールのむ
喧噪もわれはこのみてビールのむ
まざまざと国乱れたるビールのむ
ビールのみ見知らぬ街に出てみたり
わが父祖の運勢ぞ数奇ビールのむ
老ゆるなと又老ゆるなとビールのむ
引退をしめし合せてビールのむ
ビール買ふ紙幣(さつ)をにぎりて人かぞへ
ビールつぐ心の彫りのふかぶかと
老の目にビヤガーデンの万国旗
お別れのビールしづかにボーイつぐ
これらは連作ではなく、5冊(かな?)の句集をめくって目についたビールの句を引いたものだ(個別の出典をメモしてなくてすいません)。
こんなにビールの句が頻出する俳人というのが、まず珍しい気がする。
全ての句で、表記が「飲む」ではなく(まして絶対に「呑む」ではなく)「のむ」となっていることにも注目されたい。
「大衆にちがひなき~」はこれらの句群のなかのひとつなのだと思うと、いくらか趣きが変わるはずだ。
エモーショナルな句がないわけではないけれど、おおむねどれも飄々としている。
というか、エモーショナルな句も飄々としている。
また、ほとんどの句で、「ビールのむ」ことに特別の意味は付加されていない(やけ酒でも祝い酒でも献杯でもない)ようにみえる。
そう、「ビールのむ」ことは、日常的で平熱の営みなのだ。
(発泡酒、第3のビール、ストロング系チューハイの世の中にあって、もはやビールは日常的でない、高級である、と言う向きもあるだろう。
しかし、一流企業がこぞって模造品をいかに安く作れるか競ったり、中毒患者製造器を売りまくっているディストピア的な現状を追認しないためにも、この感覚は強く堅持する必要がある。)
今日も感染者が云人だ、人と会ったり集まってはいけないのだ、という。
廃業を検討したり、プライドと折り合いをつけて副業やアルバイトをしている友人知人も少なくない。
私は、昨年春に一度すっかり何をすればいいのかわからなくなってしまったところから、いまだきちんと立ち直れていない。
感染症拡大の影響以外にもいくつか理由があって、金がない、仕事がない。
いい音楽を聴いた。
くだらないツイートで笑った。
娘はこないだ2歳になった。それはそれはかわいい。
そして、今日も私はビールをのむ。
そこに意味や、過度の情緒はない。ただ、のむ。
「いろんなことがあるけど、人生は続く」みたいな、思いきり平凡で手垢がついていてさしたる内容もないフレーズを思い浮かべて、「いやいうてもそのとおりやでしかし」と似非関西弁で同調してみたりする。
なんとかやっていくしかない、ビールのみながら。
ちなみに京極杞陽は、華族の出身で、宮内庁式部官を務めた人物だ。まるで大衆ではない。