【見つけた!この世界が作り物である証拠】進化論が否定されたら論理的に歴史は嘘になる?(1)
進化論に対する疑問
進化論の盲点
「ダーウィンの進化論」と言えば、生物学の超基本理論であるとともに、ほとんどの人が不動の前提としてとらえているものであろう。
私たちは学校でも、そして試験でも、テレビでもどこでも「進化論」をほぼ絶対の前提として物事を考える習慣ができていると言って良い。
そしてほとんどの人が、およそ生物は進化していくものであるということが、あたかも不変の真理のように感じているのではないか。
しかし実はこの進化論というもの、最近では懐疑の目で見始められている。
「サルが人に進化した」という事で、私たちは学校で最初から「猿→猿人→原人・・・」という変化の図式を見せられるので、つい「そういうものか」と無批判に考えてしまいがちである。
でももしこの図式が正しいとするならば、中間種(進化の過程で現れる途中の種)をなぜ私たちは目にすることができないのだろうか?
動物園には現在のサルがいる。それを見ているのは高度に進化した人間たち。では「その間の中間くらいに進化した生き物」はなぜ見かけないのかということである。
進化が連続的に起こっていると考える進化論を前提にすれば、サルから少し人間に近づいた生き物や、もう少し進化した生き物、サルと人間の中間くらいの生き物、それより人間にごく近い生き物・・・そういった生き物がいるはずではないかと考えるのが普通であるが、実際には「サル」と「人間」しかいない。
しかしこの両者の距離は限りなく遠いのである。進化論の中には突然変異という考え方があるようであるが、それならばどのような種も、ある時に突然別の種に変身するというのであろうか?ある時一斉にその種の全部が変貌を遂げるというのか?こんな素朴な疑問からでも、進化論の不自然さはすぐ感じることができる。
でもこの不自然さを感じることを妨げているのは、学校やマスコミが「人間はサルから進化したものではないかも知れない」という可能性について決して口にしないからであり、進化論絶対の先入観を私たちが持たされているからかも知れない。
事実科学者の中にも進化論を否定する者がおり、さらに元々創造論(この世界は誰かが創造したものであるという考え方)を信じる人も世界には多い。
創造論は、簡単に言えば創造主がすべての世界を創造したものという考え方であり、世界の多くの一神教はこの考え方に依拠している。アメリカでは4割を超える人々が進化論ではなく創造論を信じているというデータもある。
もちろん宗教的な側面で信じている人が多数ではないかとは思うが、広い意味での創造論にはインテリジェント・デザイン論(ID論)というものもある。これは「神による創造」というよりも、「知性のある存在による創造」を主張するものである。
生命が地球上に自然発生する確率
よく言われる話であるが、地球上に生命が生まれる確率は「25mプールに、ばらばらに分解した腕時計の部品を沈めて、それをかき混ぜたら自然に腕時計が完成して動きだす」程度に驚くほど低いものであるそうである。
偶然とも言えないくらいの低い確率ではあるが、これも素人目に考えてごく当たり前の話に聞こえる。
なぜならば、現在の科学でも人類はまだ小さな花の1つも創り出すことができない。というよりもその中の細胞一つさえ創造することができない。
ナノロボットが最近ようやくできるようになってきたところであるが、あれを生き物と呼ぶことはできない。
生命であると言えるためには、自律性があり増殖が可能であるとともにその固体が自ら進化できることなどが必要であると思われるが、そういう機能を備えていない。
2020年ゼノボットと言うものが登場した。アメリカのバーモント大学とタフツ大学の共同研究チームが開発した世界初の「生命のロボット」と言われるものだが、これとてもアフリカツメガエルの幹細胞を利用したものであるそうだから、何もないところから細胞を作った訳ではないだろう。
進化論以外の選択の可能性を持つこと
このように見てくると、人間というものがこの世界に存在するようになるまでには、私たちの想像をはるかに超えた驚異的な過程があったという事に気がづく。自然に進化して、人間のような超複雑な存在が生まれたものとはどうにも思えないのである。
一神教の宗教が皆採用しているように「神」のような創造主が人を創造したというのは、実は十分に合理性のある考え方なのだ。
特に私たち日本人は、小学校中学校高校と学校で「進化論が絶対不変の真理であり、人間を誰かが創ったというような話は、宗教で言われるおとぎ話的なものだ」と暗に教え込まれている。
そのために進化論以外の発想をしたことがない人が大半である。
確かに代替案が「神を信じますか」というものであると思い込まされているので、そうなるのも無理がないところであるが、逆に言えば進化論という洗脳下に置かれてしまっていると言っても良いかも知れない。
事実「創造論=神の信仰」と思い込んでいる人が圧倒的であり、ID論的な意味で広い意味の創造(知性ある存在による世界の創造)の可能性について精密に吟味しようとする人やそもそもそういう考え方があることを知っている人が、一般人においてはほぼ皆無のように見える。
日本人の多くは仏教徒であるが、それは今日祭祀継承的な意味や習俗的な意味合いが極めて強くなっており、実質的には無神論者が大半である。
それは別の言い方をすれば科学万能主義であり、畏敬すべき超常的な存在を否定するという思考を皆が持っているということになる。
その結果、私たち日本人は「人間はどこから来たか」という私たちの存在についての根源的な問いを哲学的に考えることがもっとも少ない民族になってしまっている。
実は進化論は生物の根源についての1つの考え方にしか過ぎない。だから当然反対説が広く知られていても良いはずなのであるが、類似の考え方はあっても、(知性ある存在による創造を含めた)創造論のような真っ向から対立する考え方については、私たちはまるでそれが無かったかのように思わされている。少なくとも日本においてはそうである。
「人はサルから進化したものではないかも知れない」そんなことを言えば多くの人から「この人はおかしいのではないか」と思われかねないのが実際である。
ネットで検索してみるとよい。進化論以外の考え方は「似非科学であり偽物」というような強烈な批判を多く目にすることができるであろう。
逆に言うと、なぜそんなにムキになって対立説の可能性を切り捨てようとするのかと思っていまう。彼らには議論自体も科学に対する冒涜に見えるのだろうか。
対立説の可能性をよく吟味もせずに選択肢から消去してしまいがちなのが、私たち日本人に比較的見られる一般的特徴であり、その一番の根拠が多くの場合、学校やメディアにおける権威による発言である。問題の本質は実はここにあるのかも知れない。
この世界は作り物?
シミュレーション仮説
この世界が自然発生的なものではなく、仮想現実空間ではないかということは、既に多くの科学者が主張しているところである。
いわゆるシミュレーション仮説と言われるもので、私たちのこの世界はすべてシミュレーテッドリアリティ(仮想現実空間)であるとする考え方だ。
提唱者としてスウェーデンの哲学者ニック・ボストロム、アメリカの物理学者フランク・ティプラーなどが知られている。
中でも世界的に有名なのはイーロン・マスク氏の言葉である。
2016年6月に開かれたあるカンファレンスでマスク氏は「ベース・リアリティ(基底現実=私たちが実際にあると思っている現実世界)の中で我々が生きている可能性は10億分の1にすぎない」と述べ、この世界がシミュレーションである可能性を肯定したとされている。
このような考え方は、一見きわめて突飛な発想のように思われるが、バーチャルリアリティーの技術やシミュレーションゲームの高度な発達状況を目にすれば、その延長線上におそらく仮想現実の世界が出現することは実に論理的な推測であって、むしろこれを否定するための説得的な論拠が実は非常に少ない事に気が付く。
しかし、おそらく頭の良いエリートの人程この考え方を簡単には受け入れることができないのではないか。
これを理解するには高度の思考の柔軟性が求められるため、どちらかといえばゲームに夢中になっているような子どもの方が、すぐにこの考えの説得力に気づきやすいかも知れない。
シミュレーションゲームで日常的に実際に遊んでいるため、「ああ、それもありかもね」と実感しやすいからである。ただ、もちろん人によることは言うまでもない。
進化論の否定が論理的に帰結するもの
ところで、仮に冒頭で紹介した進化論が誤りであったとした場合、その意味することは何であろうか。
進化論は、生物が原初的な形態から次第に環境に適合して進化していく(適者生存・自然淘汰)というところにその考え方の本質があるものであると考えられる。
ではもしもそうではないとしたら、具体的にはどういう結論が導かれることになるのか。
先に結論を言ってしまうと、創造論のように「誰かが生命を創造した」ということになる。
詳しく説明しよう。
進化が否定されると、生物は進化によって次第に高度化・複雑化されるのではなく、私たち人類は、最初から今のままの姿でこの世界に登場したということになる。そう考えると、それは少なくとも自然発生的なものではあり得ないと考えるのが論理的だ。
科学的に見て、進化論を経なければ、突然今のままの姿の人間が自然に発生する理由を考えつくことができないからである。
ではこのことは何を意味するか。
「自然に発生する」の対立概念は「人工的発生」である。そしてこの場合はやはり必然的に「誰かが生命を創造した」ということにならざるを得ないだろう。
ただ、その創造者が誰かについては、もちろんわからない。
以前も書いたことがあるが、その主体は一神教が主張するように絶対的な存在としての神なのかも知れないし、あるいは未来の高度な文明下の人間なのかも知れない。あるいは実は私たち自身が元々1つの存在であり「高次のあなた=私」がこの仮想現実空間を創ったのかも知れない(ワンネスの考え方)
そしてこの主体をエビデンスをもって明らかにすることは、科学的には不可能である。
こうして進化論の否定は、つまり①「主体が誰かは不明であるが」②「誰かがおそらく生命を創造した」という結論を導くことになるのである。
ここで重要なのは「おそらく」という部分である。創造論的な発想を選択した時点で進化論に比べて圧倒的に不利なのは、創造主体はこの世界の外部に存在する可能性が高いために、その証拠を提示することができないため、あくまでも推論として結論づける以上のことができないということである。
だからと言って、「証明できないことは存在しない」というような方式への過度のこだわりこそ、非科学的態度だと言わなくてはならない。そういう姿勢が未知の分野についての真実の発見を阻害し遅れさせてきていることは明白である。
そして、進化論の否定から導かれるこの結論から派生して、更に「誰かが(自然発生的ではないという意味において)人工的にこの世界を創造した可能性が高い」と言う結論も導かれることになるだろう。
論理的に考えれば、生命を創造したものがこの世界を創造したものとは別の存在であることもありうるが、生命というこの世界で最も高度に完成されたものを創造した者が、それよりもおそらく簡単に創り出せるこの世界(環境)をも創りだしたと考えるのが一番順当ではないかと推測されるからである。
人間は本当にそんなに残酷か?
歴史上の戦時行動に抱く違和感
話が少し変わるが、このことは後の結論に大きく関わってくるため、まず先に書いておきたい。
それは人間の残虐性についての疑いについての話である。
私たちは子どものころから文明社会において暮らしている。だから野蛮な人たちの蛮行については、実際に直面することはほぼなく、ドラマや映画の中で目にするか、あるいはメディアによって伝えられる残虐な事件の報道を通じてそれを知っているだけである。
しかし歴史を学ぶと、頻繁に人々が目的達成のためにきわめて過剰に残酷であったことが、歴史の記述の中で特に強調されていることに気が付く。
だが、素朴な実感として、たとえば戦国時代に人々が他の地域に暮らしている人々と日常的に武器を持って戦っていたこと位は想定できるとしても、自分の手柄を証明するために、他人の首を切ってそれをぶら下げて戦場を駆けていたなどということは、到底想像できるものではない。およそ私たちの理解を超える残虐さである。
環境が異なれば残酷な事ができるのか?
たとえばフランスのギロチンもそうである。とてもではないがそういう事を許容することは私には無理である。ギロチンによる処刑法は、車裂きの刑は残酷だから受刑者の苦痛を和らげるために採用された処刑方法だと言われるが、いずれにしても残酷過ぎて到底信じることができない。
このような歴史に見られるように、人間と言うのは本当にそんなに残虐だったのであろうか。
時代が異なり環境が異なれば、今とは全く違う感覚なのかもしれないけれども・・・
私は歴史に詳しく、実際に人にものを教える立場にある人間であるが、歴史について語るときに、いつも脳裏に浮かぶのは「文化が違えば、本当にこんな残虐なことを人間は平気でやれるのか」という根源的な疑問である。
もちろん背景や理由があって行われていることなどは百も承知であるが、違和感を感じたことは一度や二度ではない。
そしてそういうときに、実は必ず思っていたことがある。
それは「歴史自体がそもそも嘘ではないのか」という疑いである。
(2)へ続く。
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