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「戦い無き世界を願って」

 プーチンが悪い。中国が悪い。北朝鮮が悪い。
 日本は、可哀そうなウクライナを応援するとして火薬や砲弾まで輸出すると言い始めていますし、米中に次ぐ世界第三位の軍事大国となる程までに防衛費を増やして抑止力を高めようともしています。


抑止力

 その流れはもはや止めようがないのかもしれませんが、私は異を唱え続けています。先日も、SNSに次のような投稿をしました。

「『抑止力』とは軍事力を背景にした脅迫行為です。となれば互いに脅威を感じさせようと軍拡競争にはまりこむのが必然です。そして兵器が増えれば暴発する可能性も高まります。兵器は殺戮と破壊を目的とした凶器です。果たして凶器を増やして平和が維持できるのでしょうか。むしろ開戦のリスクが高まって、双方に多くの被害者を生み出す結果を招くのではありませんか。」と。

 すると、「暴発する可能性はむしろ下がると思います。 拳銃同士で牽制し合ったらお互い死ぬかもしれないからどちらも手を出せないでしょ。」というリプライが届きました。

 この理屈、どこかで聞いたことがありませんか。核抑止の根底にある「相互確証破壊」という理論です。要するに、核攻撃を仕掛けたら相手も核で反撃してくるだろうから、双方ともに怖くて戦争を始められないという理屈です。

 先の譬えに戻れば、互いに拳銃を構えて対峙したら怖くてどちらも撃てないだろうと言うのですが、本気で殺す気だったらあとさき構わず撃つでしょうし、恐怖を感じていれば緊張に耐え切れず引き金を引くかもしれません。ずっと睨み合っていれば、いつ撃ち合いになってもおかしくないと考えるのが、私たち武を修める者の常識です。

 つまり「相互確証破壊」は、核であろうと通常兵器であろうと、まったく当てにならない屁理屈なのです。

 とはいえ、相手が軍事力を高めてくれば、こちらもそれに負けじと抑止力を高めたくなる気持ちはわかります。もしもいきなり攻撃されたとしたら、やられっぱなしかすぐに降伏するかしかないという状況は、受け入れがたいですからね。

 少林寺拳法に入門する人の多くは、「自分の身を護りたい。大切な人を守りたい。」という願いを動機としています。私自身も強くなりたかったので、その気持ちはよくわかります。

不殺活人

 その少林寺拳法には、『不殺活人』という特徴があります。急所を上手に攻めると、戦意を喪失させたり気絶させたりして相手を制する事が出来るように構成されています。殺さずに対処できるこの技術があるからこそいざという時に安心して身を護れるわけですが、もしもそれがナイフや拳銃を使う技術だったとしたら、例え護身の為であっても私は運用したくありません。被害の苦しみもつらいですが、加害の苦しみもまたつらいものですから。

 相手を敵とみなさない事が、『不殺活人』の要諦です。どんなときにも『半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを』と考えるのです。たとえ敵対し攻撃してくる相手であっても、それを敵だと思えば見境なくなって殺してしまいかねませんから、自制するためにはどんなに酷いことをした奴でも『人』として尊重し冷静に事情を慮りその人の幸せまでをも願う気持ち(平常心)で対峙することが必要なのです。正義感や善悪の価値観は立場によって異なるという当たり前のことを忘れて、自分だけが正しいと思った瞬間から正義の暴走が始まります。「プーチンが悪い」に代表される悪魔化によって、差別を肯定し殺人を正当化してしまうのです。

いのち

 全ては関係性によって成り立っており(諸法無我)、また常に変化しています(諸行無常)。「これこそが我であると言える実体は何もないのだから執着して自他を差別する意味はない」と釈尊が教えてくれています。生きるために食させていただくという場合を除いては、殺しても構わない(どうでもよい)命などないはずです。「自分が大切だ」と思うのなら、他人もまた「大切にしている自分」を生きているのですから。平等な"いのち"(身体と心)を差別せずに多様で寛容な共生社会を志向する事こそ人類が永く繁栄できる道だと、21世紀に生きる私たちは既に気づいているはずです。

対話

 『戦争』の対義語は、『平和』ではなく『対話』であると言われます。『対話』とは、発言者が自らの思いや意見を開陳し、発言者を含む参加者それぞれがそれを聴いて感じ考えることです。『議論』や『交渉』等のように結論を導き出すために行うものではなく、『対話』そのものを目的とするのです。『対話』とは、主旋律と伴奏で成り立つ「ホモフォニー」ではなく、また単旋律の「モノフォニー」でもなく、様々な各声部が主従なく響く「ポリフォニー」であるといいます。つまり『対話』は誰も敵とみなさず全ての人に敬意を払い自他を共に尊重する行為ですから、『対話』を継続している限りにおいては互いを否定し合う『戦争』という蛮行を回避することができるわけです。かつてセオドア・ルーズベルトが「棍棒を携え、穏やかに話す」と言ったそうですが、そんな態度で信頼と尊敬を得られるはずがありません。『対話』をしたいのならミサイルを撤去するしかないはずです。

すべては人にある

 そうは言っても、「『対話』にならないから『戦争』になる」というのも事実です。

 『武』とは本来、「二つの矛を止める」ものです。要するに『対話』にならない両者を仲介して争いを収める中立の第三者という在り方をとるのが『武』なのです。双方からの尊敬と信頼を得られる人格者にしかできない行為です。全ての事が人によって行われている以上、そこに携わる人の人格や考え方如何によって結果は大きく変わります。私たち一人一人、自らが仲介者となれるように人格を高めるとともに、尊敬と信頼で結ばれた関係を広め深めることによって敵を作らずまた仲介者となってくれる真の友を増やしていく。多くの人がそうやって生きていくようになれば、世界中で『対話』が継続され『戦争』が回避されるのではないでしょうか。

抗うべきは敵ではない

 殺戮兵器によって『抑止』するという方法では、『抑止』が破られてしまったら互いに殺し合う最悪の事態を招きます。仮に「プーチンが悪魔だ」と思ったのだとしても、戦争になって殺し合いをする相手は、悪魔本人ではなく前線の兵士であり巻き込まれた市民です。落ち着いて考えてみてください。戦争は敵国と戦う事のように思われていますが、その実、支配者が私たちに殺し合いをさせるのです。恨みもない見ず知らずの兵が殺し合い、庶民は逃げ惑い、極限状況の中で人間性を失う人も出てきます。たとえ悪魔が憎くてもその悪魔を殺すための戦いではなく、無関係の人間同士が殺し合いをするのです。プロパガンダに騙されてはいけません。戦えば、勝っても負けても被害の苦しみと加害の苦しみに襲われます。そしてその苦悩を抱えるのは、支配者ではなく私たち庶民なのです。

 危機を煽り不安と恐怖に陥れ軍備増強を叫ぶ人たちは、市民を駒として利用し、自らは高みの見物を決め込みます。そんな詭弁を弄する支配者に対してこそ、抗うべきなのではないでしょうか。

 あなたは支配者の側に立ち、強者に媚びへつらい弱者を踏み潰す諂上欺下の人生をお望みですか。それとも、誰も敵とはみなさず全ての人に敬意を払い自他を共に尊重し、多様で寛容な共生社会の実現を目指す一人の市民として、差別なく"いのち"(身体と心)を大切にする生き方を選択しますか。
 諂上欺下の人たちは、支配者の側に立っていると思い込んでいるのでしょうが実は被支配者です。彼らが自ら支配されているから、支配者は支配者でいられます。差別なく生きようとしている私たちは、誰にも支配されてはいません。そんな生き方がいちばん楽しく楽ですよね。

Which Side Are You On?

「軍備増強に反対し対話を求める」声を挙げましょう

 平和のためと称して凶器を準備するのではなく、いかなる場合でも『対話』を継続する努力こそが「戦い無き世界」への道であると私は強く信じています。

資料

イスラエル首相が来月訪中か 加速化する習近平の多極化戦略(遠藤誉) - 個人 - Yahoo!ニュース

【特集】ウクライナ危機の本質と背景 | ISF独立言論フォーラム (isfweb.org)


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