『吹きさらう風』訳者あとがき
近年、ラテンアメリカの女性作家の活躍が目立ち、日本でもマリアーナ・エンリケス(『わたしたちが火の中で失くしたもの』安藤哲行訳・河出書房新社、『寝煙草の危険』宮崎真紀訳・国書刊行会)やサマンタ・シュウェブリン(『七つのからっぽな家』 見田悠子訳・河出書房新社、『口のなかの小鳥たち』松本健二訳・東宣出版)の翻訳紹介が進んでいます。
アルゼンチンのセルバ・アルマダも、国際的に注目されている作家の一人です。このたび、宇野和美さんの翻訳で、この作家の『吹きさらう風』という作品を刊行いたします(2023年10月発売)。その刊行に先んじて、本書の訳者あとがきを公開。日本の読者にとっては、今のところほとんど未知の作家だと思いますので、宇野さんにガイドをお願いしたしだいです。アルマダという作家について、『吹きさらう風』の反響、また他の作品についてなど、コンパクトにまとめてくださいました。アルマダと(まもなく刊行される)『吹きさらう風』に、多くの方が興味をもってくださることを願っています。
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『吹きさらう風』訳者あとがき
宇野和美
プロテスタントの牧師ピルソンは、十代の娘レニを伴って、都会から離れた場所を巡り布教活動を続けている。ある時、荒野のど真ん中で車が動かなくなり、たまたま通りかかったトラックに牽引されて、自動車整備工のグリンゴ・ブラウエルのところに連れていかれる。
本書、セルバ・アルマダ著『吹きさらう風(原題El viento que arrasa)』は、前述の三人に、ブラウエルの息子と思われる十代半ばのタピオカを加えた四人の登場人物が一昼夜足らずのあいだに繰り広げる出来事を綴ったリアリズム小説だ。
華やかな舞台や道具立ても、目を引くような事件も何もない。その何もなさがいい。
大げさな表現を避けて、小声で語られるような文章からは、太陽に焼かれた辺境の地の匂いや手触りまでが立ち上がってくるようだ。
私が本書を手にとったのは二〇一五年九月、スペインはマドリードの書店ティポス・インファメスですすめられてのことだった。何の予備知識もなく読み、感傷にも甘さにも寄りかからない凛とした物語世界に圧倒され、読後しばし呆然となった。
著者のセルバ・アルマダは、アルゼンチンのエントレリオス州のビジャ・エリサという町で一九七三年に生まれた。エントレリオスは、ブエノスアイレスの北、ラプラタ川とウルグアイ川に挟まれたところに位置する州だ。両親はどちらも、幼い頃に貧しさを経験してきた農家の出で、町は、カトリック色の強い、内陸の保守的な土地柄だったが、両親と兄と妹とともに自然に囲まれ、幸せな子ども時代を送ったという。
十七歳のとき進学のため、エントレリオスの州都であるパラナ(本書にも登場する)に出て、大学で社会コミュニケーションを勉強しはじめた。娘を進学させるのが家庭的に楽でないことはわかっていたので、卒業したらジャーナリストになるつもりだったが、文学への興味が芽生え、方向転換をして文学の教師となった。
文芸評論家ベアトリス・サルロとのインタビュー(「クラリン」二〇一三年四月七日付)によると、子ども時代は、父親が買ってきてくれる「ビリケン」(漫画などの載った子ども雑誌)のほか、小学校の図書館で本を借りて、オルコットやマーク・トウェインやドイルなど、古典的名作を手あたり次第に読んだ。今自分がいる場所とは違う世界、違う人生があるということを教えてくれる文学は、閉塞感のある社会で一種の救いとなった。その後、公共図書館でも本を借りるようになった。だが、パラナで文学に出会ったとき、自分は「きちんとした読書」をしてこなかったことに気づいた。「コルタサルを読んだことないの?」と聞かれ、十代の頃に読んだことがなく恥ずかしい思いをしたと語っている。
そして二〇〇〇年には、ブエノスアイレスに居を移した。
ブエノスアイレスに出てからは、作家のアルベルト・ライセカ(一九四一〜二〇一六)の創作ワークショップに長く通い、自分の書いたものを複数の人たちに読んで批評してもらう機会を得て、多くのインスピレーションを受けたという(「エル・エントレリオス」二〇二一年九月二十七日付)。二〇〇六年には「カルネ・アルヘンティーナ」という名の文学サークルを共同主宰するようにもなった。こういった活動は、作家を志す者にとって豊かな土壌となっているようで、アルマダと同じく気鋭のアルゼンチン作家であるサマンタ・シュウェブリンも雑誌「クアデルノス・イスパノアメリカノス」(二〇二一年六月号)で、同国における文学ワークショップの伝統について触れていて、アルマダのワークショップを受講してデビューした作家もいる。
アルマダの名が、アルゼンチンの文学界で注目を浴びるようになるのは、二〇一二年にブエノスアイレスの出版社マルドゥルセ(「淡水の海」の意で、ラプラタ川を指す)から本書『吹きさらう風』が刊行されたときだ。初版は千五百部だったが、読者や批評家から大きな反響を呼んで瞬く間に版を重ねて一万部以上のヒット作となった。マルドゥルセ社が二〇一五年にスペインに進出したことも追い風になったようだ。
現在までに版権は、英国、米国、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ギリシャ、スウェーデン、ノルウェー、トルコ、ブラジル、インドネシアで売れ、アルマダは、スペインはもとより、ベルリンやパリの文学フェスティバルにも招待された。
また二〇一九年には、エジンバラ国際フェスティバルで、その年、英語で初めて紹介された最も優れた翻訳作品に贈られるファーストブックアワードを受賞した。アルゼンチンというとイメージされやすいブエノスアイレスでもパンパでもパタゴニアでもない、北部の辺境が舞台のローカルな作品が、いかに普遍性を持つものに昇華しているかがわかるだろう。
車の故障と嵐によってもたらされた非日常のなかで、まったく異なる人生を歩んできた二人の男、牧師のピルソンと自動車整備工グリンゴ・ブラウエルが邂逅する。牧師の娘レニことエレナと、グリンゴの息子タピオカことホセ・エミリオも同様だ。生きることの本質が凝縮したような空間がそこにはある。
マルドゥルセ版の裏表紙には「フアン・カルロス・オネッティ(一九〇九―一九九四)からフアン・ルルフォまで、ラテンアメリカ文学の伝統を踏襲しながら、フォークナー、マッカラーズなど、北米の作家の影響を受けた小説」と書かれている。ほかに、フラナリー・オコナーやコールドウェルの影響に言及している書評もある。
それをどう読むかは、読者の自由だ。「どの物語においても、私はテーマは気にかけない」「疑問や好奇心に導かれて人物や宇宙に向かっていくだけで、あらかじめ答えがあるわけではない」「書くと、おのずとテーマは現れて、読者がそれに気づいたり気づかなかったりするもの。テーマはこれ、と押しつけたくない」「作品のトーンは、最初から狙うものではなく、書いているものの声により導かれる」と、アルマダは語っている(アルゼンチン文化省インタビュー 二〇二〇年十一月二日、「エル・エントレリオス」前出)。読者や時流への媚びも目配せもない、書くことへのまっすぐな姿勢がうかがわれる。
アルゼンチンの映画監督パウラ・エルナンデスによる映画も、ごく最近完成し、今年二〇二三年八月にトロント国際映画祭、サン・セバスティアン映画祭で披露された。日本でも上映される日が来ることを願っている。
ここで、アルマダの主な作品をあげておこう。まずは、『吹きさらう風』ではじまる「男たち三部作」として括られる、二作目の小説『煉瓦職人たち』(Ladrilleros)と、三作目の小説『ただの川ではない』(No es un río)。もともと三部作を意図したわけではないが、並べてみると、辺境、男性、暴力、限界など、通底するものがあり、そう呼ぶことにしたようだ。
『煉瓦職人たち』は、同じくマルドゥルセ社から二〇一三年に刊行された。アルゼンチン内陸部のマチズモや暴力が支配する村で、対立する二家族の息子同士の恋愛がもとで引き起こされた悲劇を描いた作品で、スペインのティグレ・フアン賞の次点となった。
『ただの川ではない』は、二〇二〇年にペンギン・ランダムハウス社から刊行された。死んだ友人の息子を連れて、古くからの友人である男二人が川釣りにいき、巨大なカワエイをしとめる。だが、それがもとで彼らは島の人間の反感を買うことになる。川と暑さと圧倒的自然を背景に、やはり乾いた筆致で、登場人物たちの過去と現在が描かれる。死者が生者のように登場するなど、ルルフォとの類似性が、三部作のなかでも最も感じられる作品だ。
さらに、二〇二一年には『吹きさらう風』と『煉瓦職人たち』がそろって、ペンギン・ランダムハウス社から版を改めて刊行された。自国の版元から出た作品が、大手出版グループにより再刊されるのは、ラテンアメリカ出身の作家がスペイン語圏全体の作家として認められたことを示す典型的指標である。
二〇一四年には、ペンギン・ランダムハウス社からノンフィクション『死んだ娘たち』(Chicas muertas)を刊行した。一九八〇年代にフェミサイドの犠牲となった、当時十五歳、十九歳、二十歳だった娘たちの事件を追ったもので、アルゼンチンのロドルフォ・ウォルシュ賞の次点となった。事件の書類を調べ、家族や周囲の人びとの聞きとりをする間にも、同じような事件が続発し、女が女というだけで次々と命が奪われていく。アルゼンチンの女性たちは、これほどの暴力にさらされているのかと、改めて苛酷な現実をつきつけられる。
おもしろいのは、端々にアルマダ本人の人生における、性暴力やジェンダーに関連のあるエピソードが挿入されていることだ。パラナから自宅までヒッチハイクをしたとき、同乗の男性たちが銃を持っていたという恐怖体験、若くして結婚した両親が夫婦喧嘩をしたとき、母が父の腕にフォークを刺したこと等々、事実は小説より奇なりだ。
とはいえ、この作品は、後をたたないフェミサイドを告発しようという意図で書かれたものではないようだ。アルマダは、自分としては、身近で起きた事件を書いてみたかったと語り、事実を追い、明らかになったことを書くことに終始し、判断は読者に委ねている。
二〇二〇年三月六日にアルゼンチン文科省は「読まずにはいられないアルゼンチンの主要女性作家」として、十一人の女性作家を紹介した。十一人のなかには、『寝煙草の危険』や『わたしたちが火の中で失くしたもの』のマリアーナ・エンリケスや、『口のなかの小鳥たち』や全米図書賞を受賞した『七つのからっぽな家』のサマンタ・シュウェブリンなど、日本でも翻訳のある作家とともに、セルバ・アルマダももちろん入っていた。
アルゼンチンは、ラテンアメリカでも最も古くから出版産業が栄えた、物語の長い伝統のある国で、紹介すべき作家はまだまだいる。アルマダがよく言及しているサラ・ガジャルド、若手のマリナ・クロス、国際アンデルセン賞を受賞したマリア・テレサ・アンドルエットなど、いつかご縁があればという期待をこめて、ここに名前を挙げておこう。
メキシコのグアダルーペ・ネッテル(『花びらとその他の不穏な物語』『赤い魚の夫婦』)に続いて、日本ではまだ紹介されていないスペイン語圏の現代女性作家の声を届けられたことは望外の喜びだった。読者の皆様に愉しんでいただき、これからもスペイン語文学に期待していただければ何よりだ。
本書刊行にあたっては、アルゼンチン外務省のプログラマ・スールの翻訳助成を受けることができた。アルゼンチン共和国政府に感謝したい。
また、松籟社の編集者、木村浩之さんには、翻訳出版の機会を与えていただいたことはもとより、たいへんお世話になった。編集の過程で、訳稿を英語版The Wind That Lays Waste とつき合わせて綿密にチェックし的確な指摘をくださり、とても心強かった。ありがとうございました。
二〇二三年九月
宇野和美
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『吹きさらう風』の紹介ページです。各オンライン書店さんの販売ページへのリンクも掲載されています。
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